Astronaut

宇宙飛行士に憧れていました。科学、ポルトガル語、アニメ、ブラジルetc、取り扱っております。

自分自身が犯した努力依存の短所

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以前働いていた現場での話。 早く役に立てるようにならなければ!と思う。周りには自分よりも能力のある人がたくさんいて、自分は劣っている。一刻も早く追いつき、あわよくば追い抜くことができればと感じる。すると何かを身につけること、勉強することに固執するようになる。何もしていない時間やただの待ち時間などがとても無駄な時間に思えてくる。少しでも多く毎日毎日勉強にあてる。勉強自体は嫌いじゃないが、というかむしろ好きだが、僕がいう勉強は受験生がやるような机にしがみついてやる、そういう類のものだった。いろんなものに手を出しすぎて、それが本当に必要なものかを判断しようとすることもなく、没頭する。一時期こういう時期があった。ただ、ある時、その時の自分があまり幸せではないことに気づき、だからと言って、このままひたすら努力を続ければ幸せになれるかといった時に自信を持つことができなかった。

別に努力を否定するわけではない。僕は別に勤勉じゃないけど、勤勉であるのは素晴らしいことだと思うし、必要なことだと思う。ただ自分の今いる位置を頻繁に確認すること、目的をしっかり定め、その目的が本当に自分の願いや価値観としっかり連結されていることを常にチェックしなければならない。当時はいつも未来のことばかり考えていた。今は無機質のような生活をしていても、それは未来に対する投資だから別にいい。そのうち何かが変わるだろう、と。最近少し考えが変わった。将来は大切だけど今を犠牲にするのは少し違うし、それはやっぱり愚かな人間のやることじゃないかと思う。

今の自分を無条件に肯定的にとらえているか?

何かいっぱしのものを身につけたとき、それは技術でも資格でも外国語力でも何でもいいが、自分が努力した証だと素直にうれしいと感じる。それを人が知れば、また実際に誰かの役に立つならば、よほどひねくれた人でない限り、それを認めてくれるし、褒めてくれるだろう。仕事で一生懸命頑張って、実績や結果があらわれた時もそうだろう。しかし、ともすると人は(というか昔の僕は)それを自分自身の、人としての価値だと錯覚してしまうことがある。何かができるから価値がある。自分を肯定することができる。だがもしそこで自分がそう捉えているのであれば、自分以外の他人に対してはどうなのか?表面的には普通に、または親しく接することは簡単だが、自分よりも何かにつけて劣る人間を心の中で自分はどのように思っているのだろう?
自分を大切にできない人は、他人を大切にすることもできないということを聞いたことがある。とても的を得た発想だと思う。ヒューマニズムのようなものを語るつもりはないけど、もし僕が本当に何もできない人間だったとしても、自分を受け入れることができるだろうか?外的な知識や技術が自分の価値のすべてだと言うならば、それは言い換えれば、素の自分は空っぽではないのか。あまりにも弱く簡単に崩れ去ってしまうアイデンティティしか持ちえないのはとても危険なことである。

傲慢になる可能性を持っている

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自分が少し周りよりもできるようになると逆にできない人が鼻につくようになる。もう少し早くできないのか、もっと効率やクオリティ高くできないのかという思いに駆られる。最終的に行き着く先は他人に対する人格否定である。そういう上司や同僚が世の中にはたくさんいるが、そのような人たちは自分が正しいと思い込んでいる。中には本当にすごい努力をしている人もいるかもしれないけども、それを他人にまで押し付けるな。僕がした失敗の一つである。すなわち、他の人にも最大限の努力やサービスをすることを要求するようになる。海外に行くとわかると思うが(国にもよるけど)日本人は極めてその性質が強く、どんなところでも最高レベルのサービスを期待する社会である。外国人が日本に来たらその質の高さに感動する。日本は徹底的にお客様至上主義でそれにあやかり勘違いしている馬鹿は迷惑なクレーマーになる。すべてのカスタマーの欲求を完璧に満たすことなどできないのに、自分の感覚は一般の、すなわち大衆の感覚であり、常識であると勘違いし、外で大きな態度をとる人は自分のあまりにも安いアイデンティティを見せびらかしているようなものだ。ちょっと話がずれてしまったけど、要するに自分に厳しくするのは勝手だけど、他人にまでそれを要求しすぎるなということだ。何度も言うがそういう理想の高い馬鹿が世の中にたくさんいる。だから日本は働きずらくなり、ぎすぎすした空気が生まれ、ブラック企業などという掃溜めが生まれてくる。
以前、海外に少し住んでいた時、中進国のある国のスーパーで買い物をしたのだが、そこのレジを見ただけでカルチャーショックだった。ちょうど夕食の1,2時間前だったからか結構混んでいた。レジは二つしかなく、それぞれに6、7人、人が並んでいるにもかかわらず、レジの店員は全く急がない。それどころか余裕そうに椅子に座りながら、実にマイペースで、客とフツーに挨拶や会話などしながら、トロトロトロトロ商品をスキャンしていく。日本だったら、間違いなく苦情が来るだろう。そもそも日本のレジの店員に椅子はない。ぼくはその時少し急いでいてイライラした。しかし驚いたことに、店員を急かそうとする客は一人もいない。文句を言う人も一人もいない。幸せな民族だと思った。僕も時間を忘れて彼らに付き合うことにした。もちろんそれでは仕事自体は全然進まないので同じようにしろとは言わないけれど、日本に戻ってきてからスーパーの店員を、そして客を見たら、もう少し寛大になって余裕をもってやれと、言いたくなるような光景を幾度か目にした。かなり話がずれてしまったが、日本人はたとえ少しGDPを落としたとしても、もう少しテキトーにやったほうが全体的に幸せになれるのに。

多くのことが時間の無駄に思えてくる

極端に努力依存に陥ると、努力していない時間はまるで自動的に引き出される口座のように、自分の所有物のような感覚になって(まぁ時は金なりという言葉があるからあながち間違ってはいないと思うけど)無駄に思えてくる。趣味や遊び、食事、果ては人と雑談、交流をすることさえである。僕が犯した特に大きな失敗は、人と接する時間を割いたことだろう。以前知り合いに心理学的に人にはタイプがあるというのを教えてもらった。その一つの分け方は人間関係を重視するタイプと、仕事を重視するタイプである。僕は人間関係がはっきり言って苦手なので、仕事を重視するタイプだと思う。ただ本当は人と接する時間は何よりも貴く貴重な時間であることを知っているし、誰かと一緒にいるのが好きなのだ。深い人間関係を築くことは人生を豊かにするうえで最も大切なことである。それは互いに笑い合うだけの雑談でもいいし、何かの情報交換でもいい。他人のことを理解するのは大変だけど、そこに時間を割き築かれた関係は一生ものの宝になりうる。小さいころから感覚的にそれが分かっている人とそうでない人がいて(たぶん家庭環境が大きいと思う)、僕はそうではなかったのでこれから大切にしていきたいと思っていることの一つである。相手を通して違う価値観に触れるのは何とも言えない新しい発見があるし、なんだかんだ言って仕事で、一人の人ができるのは些細なことだ。自分ができないことはほかの人が補えばいいし、他の人ができないことは自分が補えばいい。人が集まると何かを成す無限の可能性が生まれる。その際に一番大切なのは、お互いの信頼関係だ。個人個人の技量以上にしっかりした信頼関係を土台として何かを進めたほうがたとえ一人一人は多少足らなくともより大きな成果をあげられるものだ。努力依存に陥ると自分が全部うまくやればいいと思っている。それは先ほどのように傲慢なことだし、周りの人と通じることができなくなって成果も上がらない。解決策を自分の中だけに求めているからである。

あまり内容を深く練ることはなくざっと書いたが、こういうことを考えるきっかけになったのはある本を読んだからだった。あまりにも有名で今更だが、スティーヴン・コヴィー博士の7つの習慣である。こういう系の、自己啓発的な(?)本はあんま意味ないと思っているから、普段めったに読まないのだが、この本だけは個人的に絶賛だった。これはもう一度自分自身を深く見つめ返す機会を与えてくれる。自分にとって何が本当に大事なのかを教えてくれて、家族や友達との関係をもう一度より健全に気づきなおす手助けをしてくれる。最初のほうに書かれている、自分の価値観を明らかにする、内的な方向性を明確にするイメージトレーニングのようなものは今でも頻繁に、そして自然に思い出される。 それによると、毎日、人生の最後の瞬間をイメージしながら、自分が本当に到達したいゴールを間違うことなく明確にして一日を出発することである。スティーヴ・ジョブスもスタンフォード大学卒業のスピーチの中で、もし今日が人生最後の日だったら、私が今日やろうと思っていたことを私はやるだろうかと問いかけて、ノーならば私は何かを変える必要があるということです、と語っている。

・・・以上ただちょっと考えをまとめたかっただけです。読んでくれた人がもしいたら、わざわざ僕の反省に時間を割いてくれてありがとうございました。 7つの習慣-成功には原則があった!