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無宗教の僕が冷静に指摘するキリスト教の問題点

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イエス・キリストが教えを広めていたころも含めて考えれば、キリスト教には約2000年の歴史がある。カトリックやプロテスタントという大枠だけでなく、キリスト教にはあまりにも多くの宗派があって、一概にはもちろん言い切れないけれど、全世界に約18億人余りの信者がいることは間違いなく奇跡に等しい。イエスキリストの言葉と行動が世界に与えた影響の大きさは計り知れない。
個人的にはブラジルに居た時に、あそこもカトリックの国なのでクリスチャンに会う機会は多かったし(というかほとんどの国民はにわかクリスチャンであるカトリック)、宗教学についての関心が少しあって、関連本を読んだり、少なからずその精神に触れてきた。僕自身は無宗教である。
その中で感じるのは、広い視野を持つこと、寛大さと開かれた心を持つことの難しさである。キリスト教を否定するつもりはない。むしろ、本当に敬虔な宗教家には敬意を払う。
だが、キリスト教にも多くの問題がある。
今日は無宗教の僕が考えるキリスト教の問題点をまとめてみた。神学的なことはそこまで分からないので素人の考えで個人的な意見にすぎない。そうしようと思ったのは、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒がどれだけ同じ神を持つ兄妹宗教として融和できるか(いずれも一神教なので、理論的には必然的に、その三つの宗教の神は全く同一存在ということになる)、ということに対して疑問と期待を持っているからだ。
アメリカとイスラム圏の仲の悪さは誰もが知っている。
では具体的な内容を見ていこう。

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Ⅰ.実体が伴わない。

キリスト教の核心とは何だろうか?
僕が思うにそれは新約聖書の初めの4つの福音書の中でイエスが語る言葉ではないだろうか。イエスを神の子としてあがめる宗教であれば当然そうあるべきだろう。
ではイエスは人々にどのように教えを説いたのか。
分かり易い代表的な言葉は“自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ”とか“だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい”とか“ 敵を愛し、迫害する者のために祈れ”とか、“人をさばくな。自分がさばかれないためである”とか、“だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである”といったものが比較的有名である。
では2000年の歴史を持つキリスト教は、このようなイエスの教えをその如くに守り実践してきただろうか?
僕は、個人個人の次元では、大半の信徒がイエスの言葉を守り実践しようと努力してきたと思っているが、深いところでキリスト教は、人の本質を変え、善性を強化、普遍化するのに成功したとは思わない。

(1)十字軍の遠征

宗教をめぐる戦争は後を絶たないが、キリスト教の独善性と排他性が最も色濃く表れるものの一つとしてこの十字軍の遠征がある。詳しくは十字軍の暗黒史というサイトに書いてあるので興味のある方は一読を。簡単に言うと、イスラム教のセルジュク・トルコが勢力を拡大しエルサレムまでも占拠していた。その土地を奪い返そうとして結成されたのが十字軍である。これを国土回復運動(レコンキスタ)と言う。十字軍は、アラブ人は神を冒涜しているとして、十字軍戦争を正義の戦としたが、結果はイスラム側の勝利に終わった。
 誰がどう考えても、イエスの言葉を実践しているとは思えない。寛容さや慈悲とはかけ離れている。どうしてこのようなことが起こるのだろう。これは単純にキリスト教だけの問題ではないと思う。簡単に言うと宗教が政治的に利用されると本来の使命を果たせなくなるということである。国民の多くがキリスト教を受け入れると、王はそれをもって人々をコントロールしようとする。神の名をかたって勢力を伸ばそうとしたり、他宗教の国を悪く宣伝したりする。結局キリスト教の本質的な教えが国を統べるものに浸透していないことが原因ではないだろうか。それはキリスト教の伝道不足であり、怠慢である。イエスの言葉を伝えるだけではなくて、イエスの言葉がそれを聞いた人の価値観、考え方、生き方になるくらいに教育するべきだったが、その部分が欠けていた。勿論それは簡単なことではないが、そうだとしても、そこまでやるべきだった。そしてそれができなかったのは結局キリスト教伝道者の中にそこまでのものがなかったからだ。


(2)共産主義の出発

共産主義がいかにして始まったかをご存じだろうか?
その中心人物はマルクスとエンゲルスだ。
マルクスは宗教を憎み、同じような境遇、心情の人たちを束ねるために資本論を書いた。何が彼をそうさせたのか。
マルクスの両親はユダヤ教徒だった。父は弁護士でありながら、ユダヤ教のラビの家系であり、裕福だった。しかしその当時すでにキリスト教が幅を利かせ、権威を振りかざしており、弁護士の仕事を続けるためにはキリスト教に改宗しなければならなかった。マルクスの母は最後まで反対したが、結局一家でキリスト教に改宗することになる。するとラビの家系であったマルクス一家はユダヤ教徒からどのような目で見られるようになるか、想像するのは難くない。キリスト教に改宗したはいいが、同じキリスト教徒が特別温かく迎えてくれるわけでもなかった。結局その板挟みのような状態でマルクスは宗教に対する嫌悪感を募らせていった。

(3)カトリック聖職者による児童の性的虐待

この件はカトリック教会の性的虐待事件、こういったサイトに詳しく書いてある。簡単に言うとカトリック教会の司祭が共同生活をしているところで児童に対して性的虐待をしていたということだ。カトリック教会全体で隠ぺい体質があり大きな問題になった。 こういうことがなぜ起こるかというと、カトリックは基本的に独身者のみが聖職者になることができる。だからと言ってその聖職者が性欲を全く抱かないという訳ではない。これは本質的にはおそらく教義そのものの問題である。人間である以上、否、生物である以上性欲があるのは、当たり前のことであるし、それ自体を否定することはできない。僕からすれば別に聖職者でも結婚すればいいじゃん、と思うだけだが。イエス・キリストだって33歳で十字架で死ななかったら結婚していたかもしれないよ?
ちなみにプロテスタントは聖職者でも結婚できる。

(4)黒人の教会、白人の教会

ではプロテスタントには問題がないかと言われればそんなことはない。
アメリカにおいては黒人と白人との間に歴史的な隔絶があり、教会といってもそれは未だに完全にはなくなっていない。最近のもので言えば

教会銃乱射事件、黒人9人を殺害したディラン・ルーフ被告に死刑

このような悲惨な事件が起こったり、黒人に対する警察官の横暴がFacebookに投稿されて問題の声が上がるなどがあったと思う。結局人々の既成概念や深層心理、それは元々イギリスからやってきた白人の中にあった黒人に対する差別の思いが消えていないということである。キリスト教は人の本質を変えるまでに至っていない、あまりにも無力な状態だと言わざるを得ない。


Ⅱ.信仰が甘えになっている。

本質的にはⅠと同じだが、このような指摘を入れておきたいと思う。
信仰とは何か?ということは無宗教の僕にはわからないが、聖書の中でもイエスは多くの罪人を赦している。おそらくこれがキリスト教の救いや赦しの教理の根幹となって、“信じる者は救われる”と説く。クリスチャンはカトリックであれば、神父に懺悔し赦される道がある。しかしそれを前提に理解しながら罪を犯す(ここで言う罪とは法律的な罪よりも宗教的な罪)人の心は一体どうなっているのだろう。すなわち、〝どうせ告白すれば赦されるんだから別にいいや"という不純さである。

(1)ブラジルのカトリック教会の宣伝ラジオ

僕がブラジルに居た時、いくつかの教会を訪問した。大きな教会は非常に荘厳で装飾も美しく、すごいとしか言いようがない。多くの国民が、教会は当たり前のものとして出入りしている。
あるときラジオをつけると、カトリック教会の、いわゆる勧誘のラジオが流れていた。100%理解できたわけではないが、なんて商業的なんだ!と思ってしまった。というのも、その内容が、イエスを信じ、信徒になれば、悩んでいることが快方に向かう、という類のものだったからだ。“裕福になる”とか、“仕事が見つかる”とか、“恋人ができる”とか、“病気が良くなる”とか、“奇跡が起きる”という言葉を餌にして宣伝していた。否、伝道していた。実際に良くなった人の証言などもあった。僕はそれを聞きながら、“安っぽすぎる”、“誇りはないのか”ただの神頼み、他力本願か、、、と正直思ってしまった。
やはりそれは本物の信仰とは違うものの気がした。僕がイメージする信仰はもっと、“謙遜”だったり、“感謝”だったり、“柔和”“犠牲”“利他”“奉仕”そういった言葉で表されるものだ。それは王族としての暮らしを捨て家族を捨て出家する仏陀だったり、十字架を背負い、自身を迫害してくるユダヤ人のために神に赦しを願ったイエスだったり、恵まれた修道院での生活を捨てスラム街で倒れた人を介抱し始めたマザーテレサだったり、死に際に額に手のひらを当て、自分を撃った相手を赦したガンジーといった人たちが見せてくれたものだ。

(2)免罪符

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キリスト教のカトリックは法王が中心であり一番の権力を持っている。法王だけでなく、神父、司祭のような立場の人は一般の信徒から敬われると同時に神との仲保者であるので必然的に力を持つようになっていく。
昔のキリスト教カトリックは人々に清貧を説きながら、信徒から献金を募り自分たちはいい暮らしをしていた。これはイエスが、“金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい”という言葉が利用された形だ。しまいには免罪符というものを売り出して良心的な信徒たちの不満は爆発し、プロテスタントと呼ばれるクリスチャンが現れ始めた。
免罪符とは読んで字のごとく罪が赦される札である。つまりお金を出して、これを買っておけば罪が赦されるということだ。
ある人が言った。

“銀行のお金を盗んだって平気さ。
その一部で免罪符を買えばいい。それで僕は天国に行けるよ“

もちろんこれは15世紀くらいの話で現代ではない。
ちなみに免罪符で集めたお金は寺院を立てるために使われる予定だった。

(3)映画“沈黙~サイレンス~”の吉次郎

何カ月か前に“沈黙~サイレンス~”という映画を見た。結構長い映画で寝てしまうかもしれないと思ったが、非常に丁寧に作ってあって良い作品だった。“人々が迫害され、苦しんでいるときになぜ神は黙っているのか?イエスは答えないのか?”という深淵なテーマを扱った映画だ。その映画の中で吉次郎というクリスチャンの男が出てくる。クリスチャンは日本で迫害されているから、吉次郎も踏み絵を試され、自分の命惜しさにあっさりと信仰を否定するのである。その代償として吉次郎の家族は殺される。吉次郎はそのことを悔いて映画の主人公の宣教師に告白し懺悔するのだ。しかしこの吉次郎が宣教師と一緒に捕まった時再び信仰を否定し、宣教師を売る。それだけではない。あろうことか、その後吉次郎は捕まっている宣教師のところに来て罪を告白し、懺悔し赦しを請おうとするのだ。この男は何度もこのようなことを作中で繰り返す。“どうせ赦してもらえるから”そういう根性が染みついてしまっているのだ。実はこの吉次郎はこの映画的には非常に重要人物で今述べたようなものだけでなく監督が伝えたかった内容の核心を担っていることは念のため断っておく(本記事のテーマとは異なるので触れません)。関心のある人は見てみてください。ただ、信仰はその人の姿勢次第で“厳しさ”にもなり得るしただの“甘え”にもなり得るのだということを言いたかった。

Ⅲ.根拠もなく科学を否定する

宗教と科学の対立。
人間の歴史を見れば、よく言われることである。一つだけ具体例を挙げたい。
それは何かというと、進化論の否定である。現代でもアメリカ人の40%は進化を信じておらず、人間はここ1万年以内に神によって創造されたと信じている。リチャード・ドーキンスの進化の存在証明をはじめとして、進化に関する本も何冊か読んだが、進化は科学的には正しいとほぼ確信している。進化論を否定する人は多くの場合にミッシングリンクの例を挙げるが、ミッシングリンクの化石は存在する。またリチャード・ドーキンスに言わせれば、現存する化石は全て、ミッシングリンクと同等であり、進化の中途であるという。人間がサルから進化するということを認めると人間を猿という動物に貶めてしまうという思想的危険性も理解できるが、事実をねじ曲がったものとしてとらえる不要なフィルターは持つべきではない。宗教的な立場から進化を中々受け入れられないとすれば、思想を少し変革すればいいだけの話である。端的に言うと、進化そのものが神の創造の一部であると定義すればいい。ID理論や目的論的進化論という考え方が宗教の世界においても存在する。今は科学か宗教か、または唯物論か唯心論かどちらかを選ぶような時代ではない。宗教家が持つ慈悲や赦しや愛や忍耐、感謝といったものは貴いものであるし、科学の発展がもたらした豊かな暮らしは、より人間らしい生活を営む上で不可欠なものだということをだれもが知っているからだ。


ではキリスト教の問題点は何か?

それは“妥協”だと僕は思う。
これまで見てきたものは色んな人がいるから仕方がなかったのだろうか?
個人個人の次元で見たときに必ず変な人はいるし、教義を理解できない人もいるし、自分をコントロールできない人もいるし、利用しようとする人もいる。そのような人たちにイエスの言葉は響かないのだろうか?そしてキリスト教徒はそう思っているのだろうか?それとも自分さえ清廉潔白に生きて天国に行くことが出来ればいいと思っているのだろうか?神がいるというのならば神は全知全能の方ではないのか?だとしたら解決できない問題がこの世の中にあるのだろうか?それとも神がいるというのは方便に過ぎず、本当はその存在を信じていないのだろうか?キリスト教は自己矛盾に陥っている。そしてそれを解決できずにいる。もし神が本当にいると思っているならば、彼らの信じる神は一体のどのような神なのか僕は気になる。それは特定の人間だけを愛する神なのだろうか?人間は罪を犯すものとして創造した神なのだろうか?多くの人が苦しむこの世界を見て、それこそ沈黙~サイレンス~のように何もしない神なのだろうか?それで良しとされる神なのだろうか?
キリスト教はもし神を信じるならば、その全能性、善性、人間に対する絶対的な愛を全力で信じ、実践し、教育するべきだ。それを今後も続けるべきだ、新しい、より効果的な方法を模索しながらでも。それこそ本当にすべての人の価値観を変えるに至るまで。
結局人間を本当に意味で変えるというところまで到達していない。2000年もの月日があったのにもかかわらずだ。これは甚だ寒心に堪えないことでキリスト教の怠慢であると結論付けて、文章を終えることにする。