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自分自身を不幸にするものを知っているだけでも損はしないよ。

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人は皆幸福になりたいと思っている。それは全人類が等しく持つ基本的な想いであり、悪いことではないし、誰かが幸福になればその分誰かが不幸になると言った類のものでもない。本屋に行くとあまりにも多くの自己啓発書や成功哲学の本に満ち溢れていて、結局皆、幸福になりたいんだなぁということを思い知らされる。
近年は幸福率という言葉があり、日本は確か50位くらいだった気がする。経済的にはトップクラスに豊ははずなのに幸せになれないのはなぜか、誰でも一度は考えてみたことがあるのではないだろうか。日本人はもっと多くの幸福感を享受できてもいいはずだ。それを妨げているのは何か。
細かく分析すればもっといろいろ出てくると思うけど、今回は僕自身が感じた自らを不幸にするものをできるだけ具体的に挙げてみた。自分でそのことを自覚しているだけでも、日常の中に潜んでいる不幸への底なし沼に引きずり込まれなくても済むかもしれない。


必要以上にお金や物を欲しがる。

お金に対する執着、ものに対する執着。現代はその辺のお店に行くだけでもあまりにも多くの物に満ちていて、いろんなものが欲しくなる。100円均一やホームセンター、家電量販店、リサイクルショップなどに並ぶ商品は常に改善され続けていてどんどん便利なものが増えていくし、一度ぜいたく品を使うようになると人は同じ水準のものが当たり前になってくる。誰もが物欲にまみれている。高価な時計、車、衣服、ブランド品。友達が良い時計や車を買ったりすると自分も対抗しなくてはならないような思いがわいてくる。どんなにお金があってもまだ足りず、お金がある暮らしの中に幸せが得られると錯覚するようになる。これが危険な罠だ。お金があって幸せになれるなら、日本人の幸福率は世界で2位や3位くらいでもおかしくはないだろう(最近はもっと落ちたかもしれないけれど)。

僕はブラジルのスラム街で暮らす人たちに何人もお会いした。日本でも最近は所得格差や貧困などが頻繁に報道されるけど、それはそもそもメディアの中にお金があれば幸せになれるという間違った観念が染みついているからであり、彼らはそれに気づいていない。そういう報道がなされるたびに人々になかに同じような考えが刷り込まれるようにして入っていく。メディアは今も昔も全く何の役にも立っておらず、成長していない。ブラジルの人々はものすごく治安が悪い中でも比較的幸せそうに暮らしていた。様々なしがらみにとらわれて生きる日本の多くの人よりも幸せな人が多いのではないかと、向こうに居た時に感じた。

物欲や資本主義自体を否定するつもりはない。
資本主義は人類に経済発展をもたらした至高のイデオロギーである。
暮らしが豊かになれば、それは人々に喜びをもたらす。それは間違いない。会社で働かなくてもいい代わりに洞穴に住み、狩りをして生活しなければならないとなれば、そんな生活は誰もが拒絶するだろう。
何が問題なのかというと、人間自身がお金や物欲をコントロールできないところに不和が生じてくる。お店に売ってある様々な便利グッズやハイテク製品、その他諸々のものは、本当に必要なものか、よく考えたうえで身の丈に合ったものを選ぼう。それで十分だ。そして使わずに残ったお金をもっと有意義なことに使おう。

最近は高校生でもスマートフォンを使っているけれど、それは本当に高校生活に必要だろうか。個人的には全く必要ないと思う。SNSでドロドロした人間関係を築く練習くらいにはなるだろうか。



他の人と自分を比較する。

例えば職場であればどのようなことがあるだろうか。同じ日に入社した同期でも仕事ができる人もいれば、思うようにできない人もいる。そうすると必然的に周りの人の評価も変わってくる。あの人は自分よりもよく仕事や人づきあいができる。プレゼン能力がある、頭の回転が速い、面白い、作業が速いなどいろいろあるし、本屋でも仕事のことに関する本を大量に見かける。向上心を持つこと、人から学ぶことは大切だが、それは常に自分との戦いであり、比較し一喜一憂することに意味はない。勿論たまにそういうことを言ってきたり、アピールしてくるバカがいるけれど、そういうのは相手にする必要はない。自分は自分のペースでいいし、そもそも人は皆、得意分野が違う。そして僕は必ず全ての人にその人にしか提供できない価値があると確信している。
例えばあなたが周りの人間と比較し優越感を感じているとしよう。もし環境が変わって周りにいる人が皆あなたよりも明らかに優秀な人たちばかりだったら、あなたのアイデンティティはあっという間に崩れ去ってしまうだろう。幸せになれるかどうかということに、仕事ができるかどうかなど、微塵も関係ないことなのだ。正確には全く関係ない訳ではないが、そう思っていた方が相対的に幸せになれる人が多い思いのではないかと考えている。


人や環境のせいにして言い訳をする

一番言いたかったのはこれである。自分自身も全くない訳ではないが、世の中にはこういう人があまりにも多い。本当に、頭がおかしいのではないだろうかというくらいに周りの人間や環境、政治家や経済などのせいにして言い訳をして生きている人があまりにも多すぎる。
かの有名な7つの習慣という本の中で著者が強調していっているのは、〝自分の外に問題があると考えるならば、その考えこそが問題である″というものがある。この部分を読んだときにとても衝撃を受けたのを覚えている。自分が今、置かれている環境は自分自身が選択してきた結果なのだ。誰のせいでもない。自分の責任だ。どんな人でも間違いなく自分の責任だ。未成年はそうでないとしてもかまわないけど、そういう考え方を少しずつ養っていくべきである。それが本当の自立だ。
つまり、世の中には未だ自立できていない人が山ほどいるのだ。
仕事が上手く行かないのは無能な部下や上司のせいではないし、同僚のせいではないし、会社のシステムのせいでもないし、従来のやり方のせいでもない、それは自分自身の責任だ。上手く行かないことを政治家や政府のせいにするバカもたくさんいる。そんなことを気にしたところで改善されるわけでもないのに、マスコミに煽られてよく理解してもいないのにデモに参加したりする人種は心の底から軽蔑したくなる(しないように努力はするけど)。何か問題があるならば、それは自分の責任だと思って改善するための具体的なアクションを起こせばいい。個人から始まったものでも自分自身が変われば周りの人を動かし巻き込むことができるし、国を動かすこともできるだろう。実践もなく批判したり非難しているだけの人たちはきっと自分の頭で考えることを放棄し、自分の人生に対して自分で責任を持つことを放棄した人たちなのだ。ボトムアップ式に社会を変えていくこともいくらでもできるはずなのに。


人を助けないこと

情けは人の為ならずという言葉がある。
情けは人のためにならないという意味ではなく、情けは巡り巡って自分のもとに帰ってくるという意味である。善行は自分に返ってくる。誰しも助けを必要としていることがある。自分にとって大切な人であれば、自然と体が動くかもしれない。僕が恐れるのは、例えば突然街中ですれ違った人が命の危険にさらされたら、その時迅速にその人のために行動できるだろうか。もしかしたら容易くできるかもしれないし、混乱して、または無関心のまま通り過ぎてしまうかもしれない。そういう自分自身だったらとても怖いと思う。

どんな些細なことでもいい。
人が困っていたら助けてあげよう。困っていることに気付いても何もしなかったら、僕の心が後で僕自身を責めるはずである。 “どうしてあの時、人に情けをかけなかったのか”と。


特定の人のことを影で悪く言う。

学生くらいの頃はまだやっていたけど、この行いも必ずその人を不幸にするものだ。絶対にやめた方がいい。もっと正確に言うと、本人がいない場で、本人に直接言えないようなことを言うのは控えたほうがいいということである。僕の職場では未だにそういう人がいるが、そのような人を本当に心の底から信用するのは不可能に近い。本人がいないところでその人の悪口を言うということは、〝私はこんなに性格の悪い人間です″と周りに言いふらしているのと同義である。自分で自分を貶めているのだ。そしてそのことに気が付いていないので、とても可哀そうな人間だと僕は思っている。たまに、むしろ人の悪口を言わない人は信用できないという人がいるが、そのような人はまだ小学生レベルの精神年齢だから仕方がない。
悪口は本質的には聞いていて心地のいいものではないし、前向きになれるものでもないし、聞いている人が精神的にダメージを負わされるだけである。それは本当に深い人間関係を作ることを難しくし、表面的な和合で踏みとどまらせようとするものである。そのような中ではぐぐまれた人間関係は一時的には共通の敵を立てることで一致団結したり、距離を縮めたりできるかもしれない。でもあなたは既に知っているはずだ。その人は簡単に人を影で悪く言う人で、ちょっとしたことで腹を立てる可能性のある人で、いつ自分を裏切るか分からない人だ。それでは永続する満足感をもたらしてくれる深い人間関係に至ることは絶対に不可能なのだ。
そういう人があまりにも多いと思う。自分は孤独ではないと思い込みたいが故に、身の丈に合わず無理に友達をたくさん作ろうとしたり、SNSで繋がろうとする。しかし心の奥底にある孤独感から真の意味で解放されることはないだろう。それは自分が人に対して誠実さを欠いた当然の結果である。


結論

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ここまで僕自身も何度も間違いを犯してきた経験のある、自分自身を不幸に陥れるものを書いてきた。その全てが結局は自分自身の選択によるものである。70万円の腕時計を買う代わりに10万円の腕時計を買い、残りの60万円を貯金か投資に回すこともできる。そのお金を将来本当に大切で高貴なことに当てよう。まだ相手がいなかったとしても、将来の伴侶の結婚式のためにとっておいてもいい。または大切な妻に、両親に、プレゼントを買ってあげることもできる。お金で幸せは買えないということを肝に銘じておこう。自分と他人を比較するより、自分と過去の自分を比べるようにしよう。果たして過去に自分自身よりも今の自分は前進しているだろうか。あの時思い描いていた自分に成れているだろうか。もしそうでなかったら今からでも昨日の自分に勝利する努力をしよう。必ず道は開けてくる。人は一人一人違い、だからこそ面白い。明るい人もおとなしい人も、しゃべるのが早い人も遅い人も、面白い人も真面目な人もそれはただの個性かもしれない。今の社会は特定の、都合のいい理想像にマッチする人が評価されるだけで、人の本当の価値には無関心だ。もし同じようなタイプの人たちばかりだったなら、この世の中は途端につまらないものになってしまうだろう。また基本的にはどんな時も人や環境のせいにはするな。それは自分にはこの環境を引っ張っていく能力がありません。だから何とかしてください、と吐露するようなものだ。もちろん人は一人では生きていけないけれど、自分の考え、価値観が変わればそれは世界全体を動かすだけの原動力になり得ることを知っておこう。あまり芳しくない場面に出くわしてもそこで腹を立てるという選択をするのは自分自身だ。誰もそれをあなたに強要することは出来ない。夜と霧のピーター・フランクルは身体的自由が一切ない監獄の中でそのことを悟った。そうであるならば普通に生きている自分達にはいつでもはるかに選択の自由がある。周りの人が困っていたら、さりげなく手を差し伸べてあげて、悪口を言うのをこらえよう。
自分を不幸にする原因は常に自分自身の中にしかない。

だから自分を変える努力をしよう。

最後に7つの習慣の一番最初に出てくるコヴィー博士の言葉を贈る。

〝正しい生き方無くして真の成功はあり得ない″