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「人生の目的」って考えたことある?全ての人に知って欲しい幸せの形があるよ。

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こんにちは。
人生の目的って考えたことありますか?

もしくは何のために生きているんだろうとか考えたことありますか?僕はぼんやりとですがいつも考えていました。

人生で何をすればいいのかも分からなかったので、とりあえず自分が楽しいと思えることを追求しようと思っていた時もありました。

だからといって、本当に自分の心が満足しているわけではないんですよね。

そういうのを刹那主義といいます。この瞬間だけよければいい、みたいな。結局虚しさしか残らなかったりします。

人間が神から賜った『人生の目的』を知ってから、生きていられることは本当に感謝すべきことだと感じるようになりました。 個人個人の夢はもちろんあるでしょう。それはいいことです。しかし、実は神がすべての人間に下さった『人生の目的』があります。

そしてそれを果たすことは自分たちにとっても最高の人生になるようになっています。

アメリカのTEDトーキングでは「深い人間関係」こそが人間に幸せをもたらしてくれると言っていました。それは間違いではないですが、本質的にはそれは結果でしかありません。深い人間関係というものは成熟した人格を土台としてしか出てこないからです。

相手に対する不満や怒りを通過した上で相手の『為に生きる』前に本当にその人を理解するのも理解されるのも不可能だからです。

何の話かわかりますか?

たとえ話をしましょう。

前回までの記事で『人間は神の子供』であり、『為に生きる』ということが発展の法則であると説明しました。

my-road.hatenablog.com

my-road.hatenablog.com

人間は神によって創造されたということです。

では、時計はどうでしょうか?

時計が存在する目的は何でしょうか?すぐにわかりますね。時計が存在する目的は時間を知らせるためです。時間を知りたいのは誰ですか?人間です。時計を他の用途で用いることはありますか?通常はありません。

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時計の存在目的

ここに未知の機械があるとします。あなたはその機械の使い方が分かりませんでした。さて、どうしますか。使い方を知るには、、、、取扱説明書を見ればいいですね。または作った人や製造メーカーに尋ねることです。

何が言いたいかというと、存在目的というのは、その創造主から出てくるということです。時計の存在目的は時計を作った人間が握っています。『時間を知る』という以外の用途で時計を使用しても何の価値もないですよね。

人間も同じです。神によって創造されたとするならば、神が最初に人間に何を願ったのか、ということを知らなくては人間の存在目的すなわち『人生の目的』は分からない訳です。

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人間の存在目的

そして創造主の願いにかなって生きてこそ、本来の最大の価値を発揮することが出来るわけです。

では、『人生の目的』を知るメリットは何でしょうか?

個人的に思うのは、
一つ目は、自分の生に対する疑問がなくなり、安心感を感じられるようになる。
例え将来の夢や希望がない人でも、『あぁ、そのために生きればいいんだな』ということが分かり、心が安らかになると思うのです。そこに焦りはありません。

二つ目は目的が明確になり、自分の生活が明確になる、ということです。何をしなければならないかということが分かるので自分の行動を肯定できるようになります。

三つめは、人類は必ずすべての人間が幸福に生きられる社会を実現し、すべての葛藤や争いや溝が消え、一つになることが出来る、という確信が沸いてくることです。
神は親なので間違いなくすべての人間が幸福に生きることを願っています。

それでは、『人生の目的』は何か、ということを説明していきます。




そもそも神が人間を創ったのはなぜ?

神が宇宙を創造し、その中に人間を創ったのはなぜでしょうか?
神はある面では全知全能の方です。(正確には全知全能ではありません。それについてはいずれ記事にします。)

神は何となく、暇つぶしに人間を創造したわけではありません。やってみたら出来てしまった、とかそんな軽い話ではないのです。

神にはどうしても人間を創らないといけない理由がありました。創らないといけないというか創らずにはいられない、強い衝動のようなものです。

人間を創らなくてはその衝動が抑えられませんでした。

全知全能なる神がどうして人間を創る必要があったのでしょうか?

答えは単純です。















神は寂しかったからです!!


そんなことかよ!と思いましたか?
しかし、この説明には全く理論的な破綻がないのです。全知全能であるならば、神は何でもできるはずですが、その神でも不可能なことがありました。それは何でしょうか?

それは『為に生きること』です。また『愛すること』『共有すること』『語り合うこと』『経験すること』言い方は何でも構わないのですが、一言でいうならば、



『一緒に生きること』、これではないかと僕は思います。

この宇宙が生まれるまでは神はお独りでした。はたして永遠に等しい期間をたった独りで過ごすことが出来るでしょうか。

今の時代は何でも『シェア』する時代です。ITの発達により、どんどんいろんなものがシェアされるようになっています。

そのうちネットを介して、より形のないものまでもシェアするようになるでしょう。それは『感覚』や『経験、体験』などです。

誰かと共有することで喜びや幸せが感じられるということに人間が気づいたからです。しかし、人間が生まれるまで神には共有する相手がいませんでした。

だから人間を創らざるを得なかったのです。

『自分以外の別の存在』を通してしか得られないものがある、ということを誰よりもご存じなのが神なのです。

一人でいて本当に心から喜べる人がいますか?

40代で独身で身寄りもなく、親密な友人もおらず、家族もおらず虚しさを感じずにいられますか?

そのような道理はありません。

人は必ず誰かとつながらなくては生きてはいけないし、幸せを感じることはできないようになっています。それは神も同じでしょう。


神が人間を創ったときに人間に与えた三大祝福の言葉(旧約聖書より)

いきなり聖書とか使うとやっぱり宗教だな、と思うかもしれないですが、聖書というのは大変不思議な書物です。
世界のベストセラーであり、最も多くの人間に影響を与えた本は聖書ではないでしょうか。結論から言えば神は存在するので、人間と交流しようとします。しかし、原理講論(*1)の第2章からは堕落論についての内容が載っており、それはなぜ人間の中に悪や罪が生じたのかということが書かれています。

本来そのような事実がなければ、人間は神とも自由に意思疎通をすることが出来ました。そして人間が堕落した後でも、ある種の霊的な人たちは神の意志や願いを書き留めてきました。神の意志が最も多く記述されているのが聖書です。そしてその聖書から真理を抽出したものが原理講論のようなイメージになります。

原理講論には以下のように書かれています。

神は万物世界を創造されたのち、最後にご自分の性相と形状の通りに、喜怒哀楽の完成をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで神はアダムとエバを創造なさった後『生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ』といわれたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国を創って喜ぶとき、神もそれをご覧にになってい一層喜ばれるということは言うまでもない。

アダム、エバというのは実際に存在した人間です。ただもちろん聖書に書いてあるように土と塵から神がアダムとエバを創造したわけではありません。人間はサルが長い年月をかけて進化して地上に現れてきたのです。そういう面では進化論は事実であるといえます。進化論は、生命の進化は究極的には偶然の産物であるかのように説いていて、進化と神の存在は対立する思想として考えられてきましたが、原理においては目的論的進化論を述べています。つまり進化は事実だけど、その過程で現れてきた生命をデザインしたのは神であり、最初から方向性、目的性をもって生命は進化してきた、とみるのです。
だから聖書に書かれているアダムとエバも類人猿からようやく人間と呼べる姿に進化した段階で、のちに記事にしますが、霊人体という霊の体を初めて与えられた人間とみるのです。だから聖書にある記述をすべて事実ととらえるのは正確ではありません。
現実と矛盾なく、真理を理解する必要があります。

さて、アダムとエバが地上に現れた後、神が彼らに与えた祝福の言葉が『生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ』です。つまりこれが人間に対する神の願いであり、創造目的であり、人間からすれば『存在目的』であり、『人生の目的』となります。
簡単に言うと
『生育せよ』とは人間一個人として完成しなさい、立派な人になりなさい、人格を完成しなさい、という意味です。
『繁殖せよ』とは人格完成の土台をもって、結婚後に子供を作り、理想的な家庭を創りなさい、ということです。
『万物世界を主管せよ』とは、地球環境や自然、動植物などを大切に育てなさい、ということです。

これが『人生の目的』です。これについてより詳しくは後述しますが、その前にこの三大祝福をすべての人に共通の『人生の目的』にしていいのか?ということについて説明したいと思います。


神と人間が共に喜ぶ『二重目的』

『人生の目的』とは言いますが、人によって生き方は様々だと考える人もいるでしょう。そんな押し付けられたようなもの嫌だ、と感じる人もいるでしょう。
しかしその必要はありません。

原理講論には次のようにあります。

人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、すべての存在は二重目的を持つ連体である。 性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにある。それゆえに全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずもなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、神羅万象の被造物はこのような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。

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二重目的

このようにすべての存在には二重目的があります。それは全体目的個体目的といいます。これはどういうことかというと、全体のために貢献することと自分の願いや希望を叶えることが完全に別個のものではないということです。
例えば、人間であれば、皆、大人になれば社会のために働くでしょう。同時に自分の家庭を守らなければならないし、自分のやりたいこともあるでしょう。
これは人間に限ったことではありません。植物は光合成をしながら、動物に対して酸素を供給しています。しかし同時に自身が成長するための栄養素を作り出します。
ナマズのような魚は川の底に住みながら、川底の汚れたものを食べます。それによって河川をきれいに保ちながら、自分の生命を維持しています。
全体のために生きることは本来自分自身のためにもなることなのです。
そのような関係の絶妙なバランスでこの宇宙は成り立っていることが分かるでしょう。

しかし、この二重目的の一番の本質はもっと深いものです。
最初の記事で神は人間の親であることを理論的に明らかにしました。

神と人間は親子です。本来ならば理想的な親子の関係です。

さて、では人間の理想的な親子の関係で考えてみましょう。

例えば親が外出していて何かいいことがあったとします。とてもいいことです。思わず飛び跳ねてしまうようなうれしいことです。
しかし、家に帰ってくると自分の子供がとても悲しんでいたのです。
この親はどのような気持ちになるでしょうか?
その瞬間まで喜んでいた気持ちが継続するでしょうか?

そんなことはありません。自分の子供が悲しんでいれば、やはりそれを見て親も同じように悲しむのです。

逆もまたしかりです。子供がどんなにいいことがあっても、自分にとって大切な両親が悲しんでいたら、素直に喜ぶことはできないでしょう。すなわち、もしその親子が理想的な関係を築いていれば、親の悲しみは子供悲しみであり、子供喜びは親の喜びなのです。

さて、では親はどんな時が最高に喜びを感じると思いますか?

この世の中に完成した親がいるわけではないので難しいかもしれませんが、親は自分の子供が最高に喜びを感じている姿をみて自分でも同じように喜びを感じるのです。

子供が幸せに生きる姿を見て嫉む親は理想的な親の姿ではありません。それは人間が堕落したからにすぎません。

神は被造世界を創って喜びを得ようとしましたが、どうやって喜びを得ようとしたのでしょうか。

それは子供である人間が最高に幸せに生きる姿を見て、自分も幸せな気持ちになりたいと考えたのです。

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すなわち神と人間が親子である、というところから三大祝福という内容が出てくるのです。先ほどは聖書の一節から紹介しましたが、別にその必要はありません。
つまり神が人間に与えた三大祝福は人間がそれを果たせば、最高に喜びと幸せを享受して生きられるように設定されているのです。
それが分かれば、三大祝福の成就をわざわざ拒む必要はないのです。
それでは本当に三大祝福が人間にとって喜びとなりうるのか、ということをこれから見ていきます。


神の喜びのための善の対象『三大祝福』

その前に喜びとはそもそもいかなる時に感じるものなのでしょうか?
原理講論には次のように説明されています。

喜びは独自的に生じるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状の通りに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。

これが喜びの定義です。解説するとまず『喜びは独自的に生じるものではない』とのことですが、簡単に言えば、一人では何の喜びもないよ、ということです。考えてみてください。一人っきりで本当に心が満たされるように感覚を持てる人がいると思いますか。
初めは一人のほうが気が楽だと思うかもしれないですが、人は一人では生きていけません。必ず自分にとって大切な人が必要なのです。例えば、歌うことが好きな声楽家がいたとしましょう。その人は一生懸命練習して歌をもっとうまく歌えるようにしました。しかしもしその人が無人島にいたら、そこで歌うことに意味があるでしょうか。最初は人の目を気にせずに自由に歌えることに快感を得るかもしれません。しかし、聞いてくれる人も誰もなく、一生独りで歌い続けて何になるでしょうか。そのうち歌うのをやめてしまうでしょう。
喜びには必ず自分とは別の『存在』が必要なのです。
その後の文面は非常に難しく書いてありますが、簡単にいうと自分以外の何かしらの対象、存在が自分に似ているときに人は喜びを感じるのです。
自分に似ているというのがポイントですね。
親が子供を産んだ時、その子供に親の面影がある、そんなイメージです。
対象が自分に近い、似ている性相または形状を持っていて、それからくる刺激によって喜びを感じるのです。性相ということは目に見えない性質です。形状ということは目に見える形です。対象が自分に似ている、自分と同じものを持っている。

例えばサッカーが好きな人がいるとしましょう。その人はサッカーの試合を見るのが好きでしょうし、サッカーをするのが好きでしょう。それはその人の中にサッカーが好きだという性相(目に見えない性質)があるからです。

この三大祝福も実は同じです。
人間が三大祝福を達成していくたびにそれは、人間が神に似ていく過程なのです。


自分自身を完成させる第一祝福『個性完成』

第一祝福を図にすると以下のようになります。

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個性完成

原理講論には次のようにあります。

人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。

前回の記事のところで四位基台は神の永遠の創造目的である、といった箇所がありましたが、それはこの内容があるからです。三大祝福はすべて四位基台なのです。個性完成は神を中心として人間一個人の心と体が一つになったときに完成されます。
個性完成というのはただ人間としての人格を完成させていくということだけではありません。その基準はもっと完全な姿に近いのです。正確に個性完成の定義の記述してあるところは次のようになっています。

神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって、神と一体となるので、神性を持つようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活するようになる。 また個性を完成した人間は神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになるので神が悲しむ犯罪行為をすることが出来なくなるので、絶対に堕落することがない。

ここに出てきた個性完成の定義をまとめると以下のようになります。

①神の宮となる
②神と一体となる。
③神性を持つようになる
④神の心情を体恤する
⑤神のみ旨を知り、
⑥み旨に従って生活するようになる
⑦神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになる
⑧神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなる
⑨絶対に堕落することがない

神の宮となるというのは少しあいまいな表現ですが、神の体となるということです。神性を持つようになるということは神の性質を自分の性質にするようになるということです。それはつまり神の中にない性質を人間は持っていてはいけないということであり、第2章の堕落論で述べられている堕落性という性質を欠片でもこの身に残していては個性完成した、とは言えないのです。 また4つ目にあるように神の心情を僕たちが知ることが出来るようになったらどうなるでしょうか。神はすべての人間の親です。神からしたらすべての人間が子供になります。子供が苦しんでいたり、悲しんでいたりするのを見れば親は悲しいでしょう。だから神も同じです。今の堕落したこの世界は神に悲しみを返すだけの世界となってしまっています。
多くの人が苦しんでいるのを見て神も共に苦しんでいるということです。その神の心情を理解できるならば、他人の痛みや悲しみは自分と全く関係のないものではなくて、神を中継として自分の悲しみそのものになります。だから個性を完成した人間が人を傷つけたりすることはできないのです。
これまで人間は人間の力だけでこの世界を良くしようとしてきたのではないでしょうか。それは政治だったり、経済だったり、教育だったりしました。しかし果たしてそれですべての問題が解決したと思いますか。それらは表面的な問題に対処してきただけで人間の本質が変わらなければ、何も変わりませんでした。もしすべての人間が神の心情を自分のものとして生きるようになれば、それがすべてのこの世界にある問題の最良の解決策となります。なぜなら個性を完成した人間は、相手の痛みが自分の痛みになるので自分のことだけを考えて行動することはないし、相手を傷つけることもしないからです。
個性完成とは一言でいえば、どんな人でも愛することのできる『真の愛』を持つようになることです。これはこの記事の前半で述べているように宗教家だけの課題ではありません。世界平和統一家庭連合の会員だけの課題ではないということです。神のよって創られた全人類の『人生の目的』です。もし、個性完成を成就しないで死んでしまった、死後の世界、すなわち霊界でも完成するために何かしらの苦労をしなければならないようになっています。
 さて、『真の愛』を持っていくことはその人自身を幸福にしてくれると思いますか。間違いなく幸福にしてくれます。その人はどんな人でも愛することが出来るので世界で一番自由な人になります。その人には敵のような立場の人間はいません。僕たちは普段から多くの不自由さを感じているのではないですか。それは会社の人間関係だったり、家族や配偶者との関係だったりします。それはまわりの環境や人に問題があるからではなくて自分自身に愛する能力と器がないからです。
世界的に有名な名著『七つの習慣』でコヴィー博士はこういっています。

『自分の外に問題があると考えるならばその考えこそが問題である。』と。

どんな人でも愛せるならば、その人の周りには多くの人が集まってくるようになるでしょう。残念ながら僕も全く個性完成してる訳ではありません。そして個性完成した人ならば多くの人と深い関係を築けるようになるでしょう。人間関係はその人の人間性を土台として成り立っているからです。
 それは間違いなく自分の人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。


なぜ個性完成が神の喜びとなるか。

ではなぜ人間が個性完成するとそれが神の喜びをなるのでしょうか。図にすると以下のようになります。

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先ほどの喜びの定義を思い出してください。『自己の性相と形状を相対的に感じるときに喜びが生ずるのである』ということでありました。
神は性相と形状が完全に一つになっている状態です。人間は心と体がバラバラなので、自分自身の善なる心のままに体をもって実践できるようにしなければなりません。
 個性を完成した人間には心と体が完全に一つになっています。それゆえに神がこの人を見たときに、自分と同じように一つになっている心と体を見て、自分を相対的に感じることが出来るので個性完成は神にとっても最高の喜びとなるのです。


結婚し、子供を創って理想的な家庭を築く第二祝福である『子女繁殖』

第二祝福は『子女繁殖』とか『家庭完成』とか『理想家庭』とか呼ばれています。図にすると以下のようになります。

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家庭完成

原理講論には次のように書かれています。

神の第二祝福を完成するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。

第二祝福は個性を完成した男性と女性が出会って、夫婦となり子供を創って理想家庭を築くということです。すなわち家庭生活です。
さて、結婚して理想的な家庭を創るということが『人生の目的』であると言われてすんなり受け止められるでしょうか。
そういう人もいればそうでない人もいると思います。それは自分が育ってきた家庭環境も影響しているでしょう。例えば、両親の仲が良くなかったり、離婚した家で育っていれば家庭というものに希望を抱かないかもしれません。
また昨今は平均の結婚年齢もどんどん上昇していて、出生率は下がっています。家庭や子供を持つことを負担に感じる人が増えているのかもしれません。
しかし、本当に家庭には希望がないのでしょうか。

そんなことはありません。
本来、結婚して家庭生活を送るというのは素晴らしいものなのです。
もし本当に理想家庭を築くことが出来たのならば、そこがどれだけ幸福なところなのかを想像してみてください。
今も僕たちはそもそも理想家庭なんて本当にあり得るのか、とさえ思うでしょう。だからこそ家庭を持つ前の個性完成がとても大切なのです。価値観の相違やすれ違い、些細なことで喧嘩に発展したり、夫婦間の問題は尽きないですが、平たく言えば立派な人格があってこそ夫婦円満がなされるので合って、恋愛感情で付き合っているうちは相手の悪いところなど見えてはいないのです。敢えてそのようなところを見せる人もいません。しかしながら結婚生活は違います。それは隠すことのできない生活です。今まで全く気付かなかった相手の欠点や自分との違いがいくらでも見受けられるのです。理想家庭を築くにはそれらのものを全てのりこえなければなりません。

だからこそ個性完成していくのが先でなければならないし、第一祝福でなければならないのです。

ここにはもう少し深い理由があります。
それは神の性質故に個性完成を土台として家庭完成が出てくるということです。以前神の性質には性相と形状があり、陽性と陰性があると書きました。そして性相と形状が一時的、本質的なもので土台であり、陽性と陰性が二次的、対象的な要素であるといいました。
それを図にすると以下のようになります。

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この図の中で陽性と陰性は性相と形状から出ています。もし性相と形状がなければ陽性と陰性は無意味であるし、そもそも宙ぶらりんのような状態になってしまいます。つまり性相と形状の一体化が土台であり、陽性と陰性の一体化はその上になされています。実は原因存在なる神がこのような性質であるので、個性完成が土台であり家庭を持つ前にやらなければなならないことであり、家庭完成がその次である、という原理が出てくるのです。よって家庭を持つ前に自分自身を正しく修めなければならない、ということです。
これまではそういった論理が分からず未完成のまま自分勝手に家庭を持つ人しかいませんでした。

また少し話は変わりますが、もし夫婦の仲があまりよくなかったら、そのような家庭で育つ子供は将来どのような人になると思いますか。

子供というのは親から出てきます。どこまでも親が原因で子供が結果です。ですので親の関係や愛に傷がつけば、その子供の生命に傷を与えるのです。そのような子供は自傷行為や暴力行為、そこまで極端な者でなくとも、人の痛みが分からないとか、自分に自信がない、といった人に成長するということです。そのような人が社会には溢れていますよね。
 この社会を構成する集団の最小の単位が家庭です。善良で健康的な家庭だけだったならば、この社会の中に問題が現れてくるということはないでしょう。すべての問題は人間が理想的な家庭を築けていないところから始まっているのです。そしてそのためにはまず自分自身を完成させないといけませんが、そのようなことを考えもせずに、自分の情欲を満たすために異性と交流し結婚に至るという人がどれだけ多い世の中でしょうか。

理想的な家庭を築くということがなぜ神にとっての喜びとなるかというと先ほどの個性完成の理由と同じであるというのが分かりますね。

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神は本陽性と本陰性が一つになった方です。そして理想家庭とは夫であり、陽性実体である男性と妻であり陰性実体である女性が一つになっているところです。ですので神がその家庭を顧みられたときに自身の陽性と陰性を相対的に感じることが出来るので理想家庭は神の喜びとなり得るのです。


宇宙を正しく修める第三祝福『万物主管』

第三祝福は『万物主管』とか『主管性完成』といいます。
そもそも主管とは何でしょうか。主管とはgoogleで意味を検索すると『中心となって管理すること』と説明されています。

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万物主管

理想的な家庭が増えてきて、理想的な社会や国家が創られていけば、次に何が必要かというと人間がこの宇宙や他の生命をどのように管理するのかといったことです。
原理講論には次のように書かれています。

神の第三祝福は万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的個性真理体である人間と、その象徴的個性真理体である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない。

実をいうと万物主管は、人間が個性完成して、家庭完成して、そのような家庭が増えていったら、自動的に完成されるようになっています。それは万物を正しく修めていく、ということです。ここでいう万物にはいろいろなものが含まれています。
 例えば、地球環境とか、動植物とか他にも時間、空間、知識、お金、技術etc....
これらのものをめぐって世の中ではどのようなことが起きているでしょうか。個性を完成していない人間は私利私欲のために万物を扱います。だから世の中にはたくさんの問題があるでしょう。環境破壊だったり、動物虐待だったり、知識を用いて悪さをするものだったり、悪いことにお金を使うものだったり。
 しかし個性を完成した人間であれば、そのようなことは起こりません。正しく万物をコントロールすることが出来ます。そのことを『愛による主管』とか『心情的主管』といいます。
また人間は地球環境を正しく修めるために必要な科学技術ももっと発達させなければならないでしょう。持続可能性や環境汚染につながらない技術で地球を修めなければなりません。
これが第三祝福です。


では、これまで見てきた三大祝福を成就した世界とはどのような世界なのでしょうか。原理講論には次のように書かれています。

このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して我々は地上天国という。  のちに詳細に説明するが、元来、人間は地上天国で生活して、肉身を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。

神が最初、この地上に創ろうとされた世界は上にあるように『罪の影さえも見えない理想世界』です。これを原理講論では地上天国といいます。これはほかの宗教とは少し異なる考えです。キリスト教やイスラム教では通常、天国とは死んだ後に求めていくところだからです。しかし、冷静に考えてみれば、わざわざ神が地上で人間に苦しみを与える必要はありません。今の世界に多くの問題があるのは人間が間違って堕落した結果でしかないのです。


次の記事では、『神がいるのであればなぜこの世界には多くの罪や悪、問題があるのか』というとても深い問題について触れたいと思います。

それでは。

(*1)世界平和統一家庭連合の教理を最も端的に紹介している書物。
記事内容についての注意
記事の内容は原理講論に基づいて書かれています。しかしながら、記事の中には筆者独自の解釈が反映されているところがあり、実際の教理を完璧に表現しているということは決してありません。従って、内容に関しましては世界平和統一家庭連合に一切の責任はありません。