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ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いについて世界一端的にわかりやすく説明するよ。

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via dolorosa
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)

日本人は基本的に拒否反応を示す人が多いけど、世界的には自分の宗教を持ち信仰している人のほうが圧倒的に多い。海外にあるカトリックや、他の教会の建物は別に信徒でなくとも自由に入れることが多く、本当に大きな教会はその美しさに圧倒される。
2001 年にイスラム教スンニ派のアルカイダが起こした同時多発テロの光景をテレビで見ながら、宗教間の溝はこんなに大きいものなのかと衝撃を受けたのを覚えている。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも一神教であり、神観の違いはあれど、聖書に端を発する彼らが信じる神は同じ存在である。ちょっとピンとこないかもしれないが、一神教ということは彼らの神は必然的に全く同一の存在を示すということになる。のちに少し触れるが、パレスチナ地方のエルサレムは3つの宗教全てにおいて聖地とされている(地区は分かれているが)。単純に3つの宗教の違いというだけではそれはあまりにも多岐にわたるけれども、重要なのはそれらを生み出している、最も根本的な、核心的な違いは何なのかということである。立場によって見方は変わる。ただ僕が考えるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の3つの宗教が生まれた原因に対する答えはイエス・キリストに対する解釈の違いである。。
イエスキリストに対する解釈が違うことによって、すなわちイエスをどういう存在としてそれぞれが受け入れたかによって、この3つの宗教は生まれ離れてしまったといえるだろう。
以下は3つの宗教のざっくりとした違いである。

重要視する教典が違う
救済とメシヤ(救世主)に対する観が違う
終末の意義が違う
神観が違う



まずはユダヤ教から見ていくことにする。


ユダヤ教にとってのイエスは異端者

ホテルとかにもよく置いてある聖書を見たことがあるだろうか。
中を見てみると基本的には旧約聖書と新約聖書が両方入っている。ユダヤ教が用いるのが旧約聖書で、キリスト教徒は旧約と新約両方を用いるが、キリスト教徒にとっては新約のほうが重要 である。イエス・キリストが出て来るのが新約聖書で旧約にはイエスは出てこない。旧約聖書で有名な人物といえば紅海を割ったとされるモーセや信仰の祖と言われるアブラハム、あとはダビデやソロモン王くらいは日本人でも知っている。ユダヤ教の教えの中心はモーセがシナイ山で神から賜ったとされる十戒である。ただの十個の戒めというわけではなく、こうしなさい、ああしなさいというルール、掟のようなものがこの時に大量に作られた。旧約聖書にはかなり詳細にユダヤの律法の元になった記述が載っている。
では過去のユダヤ人は旧約聖書の中に彼らの最大の願いとして何を見ていたのか。
それがメシヤの降臨である。
モーセもアブラハムも預言者とされているが、モーセ以降、イエスが生まれるまでにユダヤ人には多くの預言者がいたのである。一般的には4大預言者とか12小預言者 と言われる。ではユダヤ人はメシヤをどのような存在として捉えていたか。それはユダヤ人を導くものである。イスラエル民族(≒ユダヤ人)には困難な時が多かった。旧約聖書の記述を見るとアブラハムは神の命令で故郷を出てカナンの地(現在のパレスチナ:故にパレスチナはユダヤ教徒にとって重要な地である。先祖の土地。先祖が神様から与えられた土地。神様と約束した土地という感じである。)に住むようになった。しかし飢饉で暮らすのが大変だったので、アブラハムの子供の子供であるヤコブ、のさらに子供のヨセフの導きでエジプトに移住する。しかし時が流れエジプトでユダヤ人が増えすぎて、エジプトの王が脅威に感じるようになり、ユダヤ人を奴隷として酷使するようになる。モーセによって解放されたユダヤ人は再びパレスチナ地方に戻るが、のちにバビロニアによって滅ぼされ捕囚とされる。何とか戻ってきて預言者マラキの指導の下、建国したユダヤはローマの属国である。すなわちローマの支配を受けている。長い年月に渡り、多くの困難を経験したことがユダヤ教のメシヤ観につながっている(もちろんこれは信仰的な見方で はなく、歴史的な現実的な見方である)。ユダヤ人からしてみれば試練の中にあっても、自分たちは神の選民なのだから、必ず神が我々を解放してくれる救世主 を送ってくれる、という預言が生まれる。預言者というとノストラダムスのように『未来のことを言い当てる人』みたいなイメージがあるかもしれないが、宗教的ない意味でつかわれる預言者は『神のお告げを述べ伝える人』という意味である。つまり通常の人のは神の声は聞こえない。それで民族全体を代表して神からお告げを受け、それを皆に伝えて民族を引っ張っていくリーダーのような存在である。彼らの言葉をユダヤ人は信じ、試練の中にあって も慰めや励みとしてきたということである。つまりユダヤ教にとってのメシヤとは他国の支配や抑圧から解放してくれる政治的な解放者ということだ。この点がキリスト教徒とは大いに異なる。


ユダヤ教にとってのイエスはどのような存在であるか?



イエスはユダヤ教を変革しようとした。だから当時のユダヤ教の指導者たちの言っていることとは異なる教えを説き始めた。またユダヤ人が必ず守る安息日には働いてはならないという掟を破った。その言動がユダヤ人の指導者、律法学者たちにはうっとうしかった。それでローマに訴えられた。つまりユダヤ教にとってイエスは、教えを無下にする異端者である。今でもそれは変わらないだろう。だからイエスの言葉が中心の4つの福音書で構成されている新約聖書は彼らにとっては教典ではない。キリスト教はもちろんイエスが十字架で亡くなった後に生まれたが、イエスの言葉でユダヤ教が大きく書き換えられたというか更新されたものがキリスト教である。ユダヤ人にとってメシヤはまだ来ておらず、預言者の予言を信じて今でも彼らはメシヤの降臨を信じている。気の長い話である。

ユダヤ教まとめ

教典:旧約聖書
救い:政治的開放、神から与えられた約束の地に安住、繁栄(これはキリスト教やイスラム教に比べて極めて現実的なことである)。
メシヤ:政治的な解放者、まだ一度も来ていない。
終末:よくわからない。
神:超越神。人間をはるかに超えた存在。掟、ルールを守らせる神。偶像を禁止。旧約聖書の中では神は幾度となく人間を不信仰、不道徳を理由に殺している。ノアの洪水やソドムとゴモラを滅ぼしたり。神は恐れ多い存在。キリスト教徒との大きな違いは赦しのなさ。だからユダヤは戒律にものすごく厳しい。厳格。



以下、ユダヤ教についての追記

ユダヤ教の経典は聖書である。キリスト教徒たちはユダヤ教徒の聖書を旧約聖書と呼ぶ。旧約とというのは『神と人間の古い約束』という意味であり、イエスキリストによってその約束が更新されたと考えているのである。だからキリスト教徒にとっては新約聖書のほうが重要だが、ユダヤ教徒はイエスを受け入れていないので、キリスト教徒たちの言う旧約聖書が経典である。逆に言えば『旧約聖書』という言い方は少し馬鹿にしたようなニュアンスが入っているように感じる。タムルードとはモーセの時代に作られたユダヤ人の行動規範を後にもっとよく編集したようなものであるがぼ僕も読んだことはない。モーセはもちろん聖書の中では神からお告げを受けてそのような規範をつ創るわけだが、実際には当時のユダヤ民族のリーダーたちと相談しながら、少しずつ規範を考えたのだろうと思う。
またユダヤ教徒にとっての神はユダヤ人のみを援助する神であり、聖書をみればわかるが、ユダヤ民族の神、通称『ヤハウェ』は明らかにユダヤ民族をひいきしている。一神教の神であれば宇宙や人間の創造主としての神であり、すべての人類を大切にしてもいいような気がするが、そうではない。だからユダヤ教は民族宗教の域を出なかったのである。民族宗教というのは特定の民族に信仰されている宗教であり、反対の言葉は世界宗教でいいだろう。次に出てくるキリスト教やイスラム教は世界宗教である。イエスはユダヤ民族だけでなく人類全体を罪から救おうとしたのである。
もしかしたらユダヤの民族主義にうんざりしていたのかもしれないとも思う。


キリスト教にとってのイエスは神の子、神と人間の仲保者



キリスト教といえば十字架だろう。十字架を神聖視し大切にする。だが別にこれはイエスが言ったことではもちろんない。当たり前である。イエスは十字架によって刑を受けたのだから。イエスの死後、神学的に後付けされたものに過ぎない。十字架は当時最も忌み疎まれるものだった。当たり前である。それは一番苦しい処刑の仕方だったのだから。キリスト教はこの十字架のイメージを救いの象徴であるかのように甘美なものにするのに大変苦労したようである。それについてはここでは詳しくは触れない。

神の子としてのイエスの言葉を中心にした新約聖書

キリスト教徒にとって旧約聖書よりも重要なのは、新約聖書である。ヨハネによる福音書のなかでイエスは、モーセは私について書いたのであるという言葉を残している。イエスは人間の中にある罪や悔い改め、それによって神から受ける赦しなど、ユダヤ教よりも人間の内面的な内容について多く教えた。例えばユダヤの十戒は人をこ〇してはならない、泥棒してはならないなど、外的な行動を制限するものが多い。それに対してイエスは信仰や謙遜、愛といった目に見えないものを説いた。 例を挙げると、イエスは〝誰でも情欲を抱いて女を見るものは、すでに心の中で既に淫を犯したのである″ではないかと思う。イエスの言葉については以前まとめたので参考までに。

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イエスの教え(というか長い歴史の中で築かれたキリスト教神学)において、ユダヤ教と異なる内容は多くあるが、重要なものをいくつか。イエスは神のことを父と呼んだ。イエス自身は神と人間の仲保者であり、自分を通さないと人間は神に帰ることができないとした。神を父と呼んだことが重要である。すなわち人間は神の似姿であり、本来神と共に生活し、神と人間はとても親しい間柄であるという神観を作り出した。ユダヤ教の神は絶対的に従わなければならない恐れ多い存在であるに対し、キリスト教の神は人間を深く愛し、罪を赦す、そういう面が強く神の性質として受け入れられた。
聖書に記録されている有名なエピソードがある。
姦淫の女をユダヤ人の律法学者たちが石で撃ち殺せ、という中でイエスは彼らに対して言うのである。
『あなた方のうちで罪を犯したことのないものが最初にこの女に石を投げよ』と。
すると誰も石を投げることなくその場を立ち去るのである。
現実的な見方をすれば当時の遊女や取税人(取税人とは税を徴収しローマに収める人のこと。ある面ローマの手先のようなイメージであまり好かれていない)のような卑しい身分の人でも救いが得られるというその寛容さで庶民の支持を得たのではないかと思う。聖書の中ではイエスは病気を治したり、目の見えない人の目をみえるようにしたり、様々な奇跡を行っているから、その神通力についていった人も多くいたのではないかと思う。
そして人間の救いは罪を無くして天国に行くことであるという観念が作られた。罪を無くすためにはイエスに対する信仰と悔い改めが必要である。すなわちキリスト教徒にとってのメシヤとは神との仲保者であり、罪からの解放者である。イエスは自身がもう一度地上に再臨することを約束し、キリスト教徒はメシヤの再臨を待っている。

キリスト教まとめ

教典:旧約聖書 < 新約聖書
救い:罪からの解放。死後に天国に行くこと
メシヤ:神との仲保者
終末:イエスの再臨、天変地異によって世界が滅びる。イエスを信じる者がイエスと主に天国に入る。(宗派によっても異なるが聖書の記述が根幹)
神観:母性の神。愛の神。赦しの神。人間の父として人間に近い存在。




イスラム教にとってのイエスは預言者の一人。しかし神の言葉を伝えるのに失敗した預言者

祈りを捧げる子供

数年前はアメリカ大統領のトランプがイスラム教徒に対する偏見に満ちた発言を繰り返していた。最近は日本でもアジアや中東から来日した人を中心として、イスラム教徒ムスリムの姿をたまに見かけるようになってきた。世界ではイスラーム教徒の人口が増え続けていて、いずれキリスト教徒を追い抜くといわれている。キリスト教徒との間においては歴史的には十字軍による国土回復運動で多くの血が流れ、ユダヤ教徒とはパレスチナ地域をめぐり、中東戦争から続く紛争がいまだ解決してはいない。

旧約聖書も新約聖書も用いるが、一番重要なのはクルアーン。

イスラム教徒にとってイエスは、重要な予言者6人(アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマド)の1人であるが、神の言葉を正しく伝えたのはムハンマドだけで、他の預言者はそれができなかったとされている。ムハンマドは大天使ガブリエルから神の言葉を受け取っていたとされる。イスラム教の初期はそれらの言葉を口伝していたが、歪曲されることを恐れた後継者がマホメットの言葉を編集してクルアーンを作った。クルアーンはあまり読んだことがないから、わからないがどうもユダヤ教的な超越神的な神をムハンマドは伝えたようだ。ゆえにユダヤのように戒律に厳しく、神の偶像を強く完全に禁止している。またキリスト教のように神と人間を仲介するメシヤや救世主といった思想はなく、ムハンマドも最大の預言者といわれるが、飯を食べ市場を歩く人として、ただの人とされる。

クルアーンに基づく終末論

これは重要な教訓である。神を恐れる者たちには、良い帰り場所がある。それは永遠の楽園であり、その門は彼らに開かれている。(38章49節・50節)

あなた方は、われわれ(神)が無為にあなた方を創造したと思っていたのか。あなた方は我々の下に帰されないと思っていたのか。(23章115節)

クルアーンによれば終末は定められた期間が終わればすべてが神のもとに帰る時である。

イスラム教徒にとってのイエス

第二バチカン公会議の宣言分の一部にこのようにある。
カトリック教会は、唯一にして生きて存在し慈悲深く全能であり、天地の創造者であり、人間に語り掛ける神を奉じるムスリムを敬意をもって見る。(中略)・・・・彼らはイエスを神として認めようとはしないものの、彼を予言者として尊敬する。
イスラームではイエスを神の子としては認められていないが偉大な予言者として敬われているし、イエスの母マリアも敬虔な女性の模範として褒め称えられている。しかしユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの中で最も神観を持つイスラームでは、キリスト教の三位一体説(神とイエスと聖霊は3つの神ではなく1つの神であるとする説)やイエスの受肉(神の言葉がイエスという人間となって地上に降りた)という考えは認められない。またキリスト教においても、預言はイエスの十字架によって成就されているのでムハンマドを最終預言者として受け入れることはできないし、クルアーンも聖書には代えられない。
キリスト教はイスラエル民族(≒ユダヤ人)の神として顕現したヤハウェを愛情深い父なる神として、万民に受け継いだ。慈悲深い神であれば、ユダヤにもイスラムにも通用するが、父なる神であれば、子が想定されなければならない。それでキリスト教神学において、イエスが神であると同時に人であるという三位一体論が定着していく。このようにイエスに神性を加えたことによって、キリスト教はユダヤともイスラムとも対峙するようになっていく。


キリスト教の三位一体とユダヤ、イスラムの反応

ここで少しキリスト教の三位一体論について述べておこうと思う。ユダヤ、キリスト、イスラムが相いれな相いれない大きな原因の一つでもある神の唯一性についてである。いずれの宗教も一神教という立場は同じであるので神は『唯一人』であるというのが基本である。しかしながら、キリスト教ではイエスキリストを『神の子』である、としているのでその『神性』を認めなければならなかったのだ。そこで神学的に体系化されたのが三位一体論である。これは非常に捉えがたいに内容だが、根源的には一つだけども人間の目に見える形としては神は『父と子と聖霊』の三位において現れる、とするキリスト教の考え方である。それによってイエスの神性を保とうとしたわけだ。
当然ユダヤやイスラムはそれを否定している。コーランには次のような記述がある。

『「まことに神こそは三の第三」(三位一体の中の一つということ)等というものは無知の輩。神というからにはただ一人の神しかありはせぬ。』

よってユダヤとイスラムは全く異なる宗教であるが、共通するところもあり、その代表がキリスト教の三位一体の否定である。キリスト教からすれば、イエスの神性そのものを否定されるわけであるのでたまったものではない。


イスラム教まとめ

教典:旧約、新約聖書、クルアーン
救い:イスラムでは人間に罪はないとされる。よって罪を贖罪するような発想はない。
メシヤ:メシヤ思想はない。
終末:神に帰るとき。生死という概念よりも来世という言葉で表される。ゆえに死後の世界や霊界という考えとは少し違う。
神観:人間とはかけ離れた超越神。神の絶対性や支配者としての側面を強調。キリスト教の神の子思想と対比して、産みもせず生まれもしない神とされる。



簡単にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の違いを述べたが、最も伝えたかったことは最初にもふ触れたとおり、この3つの宗教が生まれ異なる要因となったのはイエス・キリストを如何に取り扱ったかによると思う。それが一番重要なことである。イスラム教については僕は正直そんなに理解してないです。今後修正できればと思っている。