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ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いについて世界一端的にわかりやすく説明するよ。

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ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ってなんか似てるな、って思うことがありますよね。 なぜかというと、キリスト教もイスラム教もある面ではユダヤ教の派生であり、以下のような共通点があるからです。

・唯一神の宗教である。(=多神教ではない)
・旧約聖書が経典の一つ
・エルサレムが3つの宗教の聖地

ちなみに上の3つを一言で言うなら「アブラハムという共通の先祖をもつ」ということになるんですが、それは少しマニアックなため、もう少しわかりやすく説明しようと思います。

そこで今回は、経典、神観、教え、メシヤ観などの観点より、これらの宗教の違いについてまとめました。

ただし、私の個人的な見解では、三つの宗教の違いを生み出しているのはイエス・キリストに対する解釈の違いです。

最初に全体のまとめ表を載せますので参考にしてみてください。

ざっとこんな感じですかね。

こうしてみると異なるところもあれば、確かに似通っている部分もあります。 ではそれぞれの項目についてもう少し詳しく見たいと思います。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違い。重要なのはイエスに対する解釈

イエスに対する解釈をまとめると次のようなイメージです。

・ユダヤ教:律法を廃する異端者、メシヤではない。
・キリスト教:罪を赦す者。神との仲保者。メシヤ
・イスラム教:偉大な預言者の一人だが、ムハンマドには劣る

この違いはこれらの宗教を3つに分裂させ、大きな隔たりを生んでいます。

宗教紛争って恐ろしいと思ったことありませんか? 過去の世界の歴史を振り返ってみても、十字軍戦争やカトリック、プロテスタントの争い、中東戦争や9.11テロなど、背後に必ずと言っていいほど宗教的な理由があります。

多くの宗教は平和や愛を謳っていますが、このような現実を見ると「宗教こそが世界の対立の要因だ」と感じる人も多いでしょう。

宗教の「教え」そのものはとても良いことを言っています。ただ不完全なのはいつだって人間なんですよね。これは、中々耳が痛い内容です。

しかし、私に言わせると、「宗教こそが争いの要因である」という分析は完全ではありません。

これまでの歴史の中でどれだけ多くの場面で「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい」とか、「汝の敵を愛せよ」という教えが個人個人の対立においての争いを収めてきたでしょうか。

それらは問題にならないので明るみには出ません。従って、人類の歴史としては認識されないのです。

宗教は間違いなく、人間の「良心」や道徳心、モラルといった精神面を養い、引き上げる為に大いに役立ってきました。

では、本題に戻り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違いを生み出している最も大きな要因はイエス・キリストに対する解釈の違いではないかと思います。

ユダヤ教にとってのイエス

ユダヤ教にとってのイエスは律法に背く異端者

当たり前のことですが、イエス・キリストはユダヤ人です。 ということはイエス・キリスト自身はユダヤ教徒の一人だったはずですね。しかし、ユダヤ民族はイエスキリストを異端者として扱いました。

最終的に十字架の刑で殺害したことを思えば、当時のユダヤ民族はイエスのことを相当嫌っていたことがわかります。

当時のユダヤ民族と言っても正確には律法学者と呼ばれる知識層です。

ではなぜユダヤ民族はイエス・キリストが嫌いだったのでしょうか。

律法に従わないイエスが疎ましいユダヤ人の律法学者達

イエスはユダヤ民族の律法とは少し異なる教えを説きながら、人々に接しました。 新約聖書を見るとイエスが当時の民衆に対してかなりの影響力を持っていたことがわかります。

イエスは多くの人の病気を治すという奇跡をおこなったようです。

自分の抱えている病気が一瞬で治ったりしたら、「この人はすごい!」ってなりますよね。

「彼は、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ(マタイによる福音書9章34節)」。

こちらはイエスに対する律法学者の言葉ですが、イエスの奇跡を悪霊の業だ、と言っています。イエスの力に嫉妬し、その影響力を恐れているわけですね。

「だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである(マタイによる福音書12章12節)」

これは病人を癒すイエスの言葉です。ユダヤ民族には「安息日」という日があり、この日は何もしてはいけないと教えられています。

しかし、イエスはそれに従いませんでした。これもユダヤ民族がイエスを快く思わなかった理由の一つです。

このようにして、社会的立場の低い人でも悔い改めることで罪が赦されるという教えをイエスは広めました。それは当時のユダヤ民族の上流階級の方針とは異なっており、民衆の支持を得ました。

おそらくイエスは、当時のユダヤ教の民族主義にうんざりしていたんじゃないかと思います。

ユダヤ民族にとってはイエスが邪魔な存在になりました。

最終的に裁判をし、イエスを十字架の刑に処するようになります。

よってユダヤ民族にとってのイエスは、教えに反する異端者であり、これは現在も変わっていません。

でも逆に考えるとキリスト教徒からすれば、イエスは何も悪いことをしてないのにユダヤ民族に理不尽に殺害された!とみるわけです。

それがユダヤ教徒とキリスト教の間で現在でも残る「溝」の根源でもあります。

キリスト教にとってのイエスは?

キリスト教にとってのイエスはメシヤ(救世主)

キリスト教にとってのイエスは言わずもがな、メシヤです。メシヤとはもともと「油を注がれた人」という意味の言葉ですが、簡単に言うと罪を贖ってくれる救世主ですね。

キリスト教のメシヤってどういう存在?

キリスト教のメシヤとはどういう存在かというと以下のようなことが挙げられます。

・神と人間の仲保者
・人類の罪を贖うために十字架につく
・神そのもの
・神の子

わかりにくいのは二つめですね。イエスは十字架の刑に処されましたが、キリスト教ではこれを、「全人類の罪を身代わりして贖うために十字架についた」とみるんです。

だから、「十字架を信じることであなたの罪も赦されますよ」、というようなイメージです。

また三位一体論というものがあり、イエスは神の子でありながらも「神そのもの」であるという神学が後世において確立されました。

従って現代のクリスチャンは「イエス=神そのもの」という認識が主流のようです。

ユダヤ教と比べると天地の差ですね。

キリスト教はユダヤ教がイエスの言葉によってアップデートされ、それに従った者たちが成立させた、という風に理解してもらえればいいと思います。

当時のイエスは、取税人や遊女など社会的に卑しい身分の人たちでも救われると説き、全人類を愛する神を紹介しました。

その結果、ユダヤ教の神よりも多くの人に受け入れられました。そして爆発的に広まり世界宗教となりました。

もしもユダヤ民族がイエスを受け入れていたら?

こんな仮定の話をするのは意味がないと思うかもしれませんが、イエスはユダヤ民族の知識人たちに対しても「自分こそが神の子だ」ということを説いています。

父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです(ルカによる福音書23章34節)

また上記のように自らを十字架につけようとするユダヤ民族に対しても神に赦しを乞うています。

もし、ユダヤ民族がイエス・キリストをメシヤとして受け入れていたらどうなったでしょうか?

その場合は間違いなくイエスはユダヤ民族の王になったはずです。その上でユダヤ民族以外の他民族にも影響力を行使し、現在のように世界宗教になったはずです。

つまり、もしイエスがユダヤ民族に受け入れられていれば、ユダヤ教かキリスト教か、どちらか片方しか存在しなかったはず。

それが出来なかったがゆえにユダヤ教の中からキリスト教が生まれました。

イスラム教にとってのイエスは偉大な預言者の一人。

イスラム教にとっては、イエスはメシアではありません。しかし、偉大な預言者の一人として考えられています。 有名なムハンマドが最上位の預言者です。

しかし、イエスを無下に扱うようなことはありません。イスラム教では後述するように旧約聖書や新約聖書も経典の一部と定めているので、その神の言葉を残した中心人物達として尊敬されるのです。

イエスもその一人です。

そのように考えると、ユダヤ教とキリスト教の中間のような扱いだと思われます。

「預言者」について
聖書には何人も「預言者」が出てきますが、我々が通常考える「予言者」と、宗教的な「預言者」は意味が違います。前者はいわゆるノストラダムスで、未来の出来事を予想する者という意味です。対して後者は「神の言葉を伝えるもの」という意味なので混同しないようにしてください。記事の中はすべて「預言者」です。

成立時期の違い。ユダヤ教が最も古く、イスラム教が新しい。

次に成立時期の違いについてです。 ユダヤ教が紀元前1280年頃であるのに対し、イスラム教は7世紀頃なので、おそよ2000年のひらきがあります。

また西暦はイエス・キリストが生まれた年を「1年」と定めています。実際はイエスが生まれた正確な年は不明ですが。

ユダヤ教の成立はモーセの時代

ユダヤ教というものが成立したのは旧約聖書でいうと紅海を割った話で有名なモーセの時代です。

モーセはエジプトで奴隷として酷使されていたユダヤ民族を引き連れて脱出を計り、追ってきたエジプト人から逃れるために紅海を割る奇跡を起こしたと記述されています。

ユダヤ教の成立時期はその頃です。

モーセがシナイ山に上り、神に祈りを捧げる場面があり、その中で神より授かったのが、十戒です。

実際には、当時のユダヤ民族のお偉いさんたちと相談しながら、民族をまとめあげるためのルールを考案したんじゃないかなと思います。

ちなみに十戒というと、「十個の戒め」のことだと思いますよね(笑)

その理解は間違っていないのですが、実際に旧約聖書を見るとその後に、「~してはいけない」というルール(いわゆる律法)が大量に記載されています。

以下抜粋(読まなくていいです)

21:1これはあなたが彼らの前に示すべきおきてである。 21:2あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。 21:3彼がもし独身できたならば、独身で去らなければならない。もし妻を持っていたならば、その妻は彼と共に去らなければならない。 21:4もしその主人が彼に妻を与えて、彼に男の子また女の子を産んだならば、妻とその子供は主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。 21:5奴隷がもし『わたしは、わたしの主人と、わたしの妻と子供を愛します。わたしは自由の身となって去ることを好みません』と明言するならば、 21:6その主人は彼を神のもとに連れて行き、戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりで彼の耳を刺し通さなければならない。そうすれば彼はいつまでもこれに仕えるであろう。
21:7もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。 21:8彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。 21:9彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。 21:10彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。 21:11彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。 21:12人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。~

このような律法が数ページに渡って書かれていて、旧約聖書で最も読みにくい部分でもあります(笑)

そしてこれをきっかけにして正式にユダヤ教なるものが出発したとみる訳ですね。この部分はおそらく現在のユダヤ教徒にとっても最も重要な部分の一つではないでしょうか。

『十戒』については以前、記事を書きましたので参考までに。

www.kenya316.com

キリスト教の成立時期。十字架の後、イエスの弟子たちが奮起!

キリスト教の成立はイエス・キリストが十字架で命を落とした後、1世紀くらいかけてと考えられます。

新約聖書を見るとイエスは十字架で亡くなったのち、再び弟子たちの前に現れます。これがイエスの「復活」です。このイエスの復活により覚醒した弟子たちがイエスの教えを絶やさないように尽力します。

そのような中で編纂されたのが新約聖書であり、同時にキリスト教の成立に至りました。

イスラム教の成立時期は7世紀頃

イスラム教はこの3つの宗教の中では比較的新しく、成立は622年あたりです。ムハンマドが天使であるガブリエルの啓示を受けるようになり、神の言葉を伝えました。

当時アラビア半島は多神教が主流だったようですが、ムハンマドは一神教を伝え、『神の前にすべてムスリムは平等である』と説きました。

しかし、半島に住んでいたユダヤ教徒やキリスト教徒もいたようで、そこからイスラム教は影響を受けています。

経典の違い。旧約聖書はすべてにおいて使用される。

次にそれぞれの宗教で使用される経典の違いについて見ていきたいと思います。

ホテルとかに聖書がおいてあることを見たことありませんか? 最初はなんかちょっと不気味だな~と感じる人もいるかと思いますが、だんだん慣れてきますよね。

聖書は世界的に見ればベストセラーになっているくらい売れている本です。それだけ信徒たちにとっては絶対的な影響力があるわけですね。

それぞれで使用する経典は以下のようになっています。

ユダヤ教:(旧約)聖書、タムルード
キリスト教:旧約聖書、新約聖書
イスラム教:旧約聖書、新約聖書、クルアーン

ではもう少し詳しく見てみます。

ユダヤ教の経典は(旧約)聖書とタムルード

ユダヤ教でつかわれる経典は(旧約)聖書とタムルードです。

ここでいう聖書はキリスト教でいう旧約聖書を指しています。旧約、新約の「約」とは「約束」という意味であり、キリスト教からすれば、イエス・キリストが来る前の内容である旧約聖書は「古い約束」という意味で「旧約」とつけるのです。

ユダヤ教からすれば、既に紹介したようにイエスは異端者でしたよね? だから新約聖書は別に経典ではないんです。

ユダヤ教徒が絶対視しているのは(旧約)聖書ということになります。()で括ってあるのはそのためです。

またタムルードは(旧約)聖書とは別に口伝で伝えられてきた教えをまとめたものですが、ユダヤ教の宗派によっては、経典として認めていないところもありますので微妙なところです。

キリスト教の経典は旧約聖書と新約聖書!

キリスト教の経典は旧約聖書と新約聖書です。 先ほど述べた「約」という言葉の意味を考慮すると「旧約」と言っているのは、ある面、ユダヤ教徒を揶揄する意味合いが込められているように気がします。

「お前たちが絶対視しているのは、古い約束だから、時代遅れなんだぞ!」みたいな感じです。

まぁこれはあくまで私個人の意見ですのであまり真に受けないでくださいね。

キリスト教は旧約も新薬も両方使いますが、やはり重要なのは新約聖書です。 旧約聖書と新約聖書の違いの詳細については以前記事にしましたが、簡単に言うと以下のようなイメージです。

旧約聖書:ユダヤ民族の歴史をまとめたもの
新約聖書:イエスキリストの言葉を中心にキリスト教の教えをまとめたもの

www.kenya316.com

イスラム教の経典は新旧聖書に加えてクルアーンが最上位!

イスラム教では最も重要視されるのはムハンマドが神より承った言葉をまとめたクルアーン(コーラン)です。

しかし、イスラム教では新旧聖書も認めていて、その中でも下記の3つは特に神聖視しています。

・モーセ五書(旧約聖書)
・詩編(旧約聖書)
・福音書(新約聖書)

これは、聖書の内容が神から来たものであるとみるからです。神からの言葉であれば、ムハンマドには劣るまでも偉大な預言者が人々に伝えたものであり、その言葉は大切にしなければならない、という感じですね。

しかし、実際にはイスラム教とは、ユダヤ教やキリスト教は仲が良くないため、一般の信徒が新旧聖書を読むことはほとんどないそうです。

神観の違い。キリスト教の慈愛の神とユダヤ、イスラムの恐れ多い神

次にそれぞれが信じる神はどのような神なのか?ということを見てみましょう。 同じ神でも実は性格?というか性質というか、神に対する捉え方が随分違います。

ちなみに「同じ神」と書きましたが、これらの宗教はいずれも「一神教」であり、「神が宇宙を創造した」という立場であるため、必然的に信じる神は同一の存在を指しています。

これ、わかりますか?

かなり重要な概念です。

つまり「同一の神」を信じながら、「自分たちの紹介する神こそが正しい神の姿だ」と主張しあっているんですね。

ユダヤ教の神は『ユダヤ民族の神』であり、『罪を憎む神』!

旧約聖書を見ると神はアブラハムだとかモーセに(いずれもユダヤ人)に直接話かけています。

ユダヤ教の神はあくまでもユダヤ人を優遇する神、贔屓する神なんですね。

この神観には私も正直反対の立場です。神は全人類共通の神だと思うので、ユダヤ人だけを慈しむ神とかはっきり言ってあり得ません。

しかし、ユダヤ教徒の信じる神はそういう神であり、ユダヤが選民思想であるとか、民族宗教であるというのはそこから来ています。

また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。(出エジプト記3章6節)

神がモーセに語る言葉です。旧約聖書そのものがユダヤ人によって書かれたものなのでしょうがないですが、アブラハムもイサクもヤコブも当然ユダヤ人です。

もう一つ、ユダヤの神の特徴は「罪を憎む神」です。

この神様は一言でいうと怖いんですね。怖い神様です。人間が罪を犯したら、何としても罰を与える、そういう神

子供の頃にいたずらしたら父親に怒られて怖い思いをしたことありませんか。 そんなイメージです。

その最たる例は「ノアの箱舟」だとか「ソドムとゴモラ」でしょう。

ノアの箱舟は当時の人間が悪いことばかり考えるので、唯一善良な生き方をしていた「ノアとその家族」だけを生かして他の人類は洪水で滅ぼされました。

ソドムとゴモラもモラルが退廃した街だったと言います。やはり神の怒りに触れて滅ぼされました。

他にも「タマル」の夫の「オナン」とか、罪を犯した人間が神の怒りに触れて命を奪われる、ということが良く出てきます。

善悪をはっきり区別し、悪を成せば赦しがない。だからユダヤ教は律法という名の「戒律」に厳しいんですね。

それを守ることが絶対です。必然的に神と人間はかけ離れた存在になります。こういうのを人智を越えた存在として「超越神」という言い方もします。

ユダヤの神まとめ ・ユダヤ民族だけを優遇する神
・罪を憎む神、恐れ多い神、超越神

キリスト教の神は慈愛の神であり罪を赦す神

逆にキリスト教の神はどちらかというと優しい神であると思われます。

「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。(ルカによる福音書10章21節)

イエスは神に祈る際に「主なる父よ」と言っている。この「父よ」というのが非常に画期的なことでこれによって神が少し人間に近づいた印象を受けます。

人間に近づいたというと神を貶めると言われそうですが、ユダヤ教の神よりももう少し人間味がついたといったところですね。

またイエスは多くの人に赦しを与えました。

しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。(ルカによる福音書6章35節)

このようにイエスは神の慈悲深さを強調して人々に説いたんですね。そして「あなたの罪は赦された」という場面が多くあります。

どうでしょうか。罪を犯したら問答無用で命を奪われるのに対して、罪を赦してくれる。どちらにより惹かれますか?

私はやはり後者だと思います。ただ、世の中でも飴と鞭と言われるようにやさしさだけでは人はそれに甘んじるようにもなります。

重要なのはそのバランスではないでしょうか。

ルールには当然厳しく、しかし例え破ってしまったとしても赦しはある。

イエスは神の性質における「慈愛」を強調して伝えたんですね。そしてユダヤ教の一民族の神から全人類の神へと昇華させました。

キリスト教の神観まとめ
・慈愛の神、罪を赦す神、超越神よりも人間に少し近い存在

イスラム教の神は全人類の神であるが、ユダヤ教に近い。

ムハンマドはどうも、ユダヤ教に近い神を紹介したようです。 それはイスラム教の信徒の信仰生活がかなり厳しいことからもうなづけますね。ラマダーン(断食)の月があったり、一日に5回も礼拝しないといけなかったり。

しかし、一民族に留まる神ではなくなりました。これがイスラム教が世界宗教になった理由だと考えられます。

「神の前にすべてムスリムは平等である」と説きました。ムスリムになるのはユダヤのように血統が必要であるということはありません。そのようにして世界宗教になりました。

信徒数の違いについて。ユダヤ教は唯一神の民族宗教故に少ない。

次に信徒数について簡単に確認します。

ユダヤ教:約1400万人
キリスト教:約24億人
イスラム教:約20億人

こうしてみるとユダヤ教は圧倒的に少ないですね。

ユダヤ教は前述のとおり民族宗教だからです。それはなぜかというと神観が元々「ユダヤ人だけを愛する神」であるので、あまり外に伝道に向かわないわけですね。

例えば熱心なクリスチャンであれば、「イエス・キリストを少しでも多くの人に教え、伝道しなければならない」となりますが、ユダヤ教は違います。

「最終的にユダヤ人が救われれば、他はなんでもいいや」みたいな感じですね。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のメシヤ観の違い。そもそもメシヤって何?

メシヤという言葉を聞いたことありますか?

メシヤとはヘブライ語で「油を注がれた人」という意味ですが、現代では「救世主」という意味でつかわれております。

次にそれぞれのメシヤ観についても見ていこうと思います。

ユダヤ教のメシヤとは『強力な王』であり『政治的な解放者』

ユダヤ教のメシヤは政治的解放者と言っていいと思います。政治的解放者とは一言でいえば「政治的・軍事的な問題を恒久的に解決してくれる人」ということですね。

例えば未だにイスラエルの近辺って不安定じゃないですか。そういう問題を完全になくし、イスラエルという国を堂々と勝ち取ることが出来るようにする、とかそんな感じですね。

つまり極めて現実的な人間です。 ではなぜ、ユダヤ人はそのようなメシヤを求めたのでしょうか。

苦難が多かったユダヤ民族の歴史。

旧約聖書をみると、ユダヤ人はすごい苦労を重ねてきた民族である、ということがわかります。

アブラハムは神の命令で故郷を出てカナンの地(現在のパレスチナ:故にパレスチナはユダヤ教徒にとって重要な地である。先祖の土地。先祖が神様から与えられた土地。神様と約束した土地という感じ。)に住むようになりました。

ちなみに旧約聖書の中ではカナン(≒パレスチナ)の地を神は『乳と蜜の流れる地』といかにも芳醇な土地として表現しています。

カナンではたびたび飢饉が起こりました。

それ故にアブラハムの子供の子供であるヤコブ、と更にその子供のヨセフの導きでエジプトに移住します。

しかし時が流れエジプトでユダヤ人が増えすぎて、エジプトの王が脅威に感じるようになりました。するとユダヤ人を奴隷として酷使するようになるんですね。

奴隷生活をモーセによって解放されたユダヤ人は再びパレスチナ地方に戻り統一王国などを築きますが、のちにバビロニアによって滅ぼされ捕囚となります。

何とか戻ってきて預言者マラキの指導の下、建国したユダヤはまだローマの属国です。すなわちローマの支配を受けているわけですね。

このように長い年月に渡り、多くの困難を経験し、被支配的な立場だったことがユダヤ教のメシヤ観につながっています。

ユダヤ人からしてみれば試練の中にあっても、自分たちは神の選民なのだから、必ず神が我々を解放してくれる救世主を送ってくれる、という預言が生まれます。

旧約聖書の中には多くの預言者がおり、預言者たちが『メシヤが降臨する』という言葉を残しています。

彼ら預言者の言葉をユダヤ人は信じ、試練の中にあっても慰めや励みとしてきました。

そして、それが一番最初の具体化したのはイスラエル統一王国における「サウル」がその王になった時です。

この時に「サウル」に「油を注ぐ」という儀式を経て王として認定されます。次に王になったダビデもやはり「油を注がれて」王になります。

つまり「メシヤ=油を注がれた人=イスラエㇽの王」という関係が確立するようになります。王ということは軍事的・政治的に国を引っ張っていく強力なリーダーですね。

それがユダヤ教のメシヤ観です。

今なお中東地域に多くの禍根を残していることを思えば、ユダヤ人のとっての本当のメシヤはまだ来ていません。イエスが来てから2000年以上たった今でも、熱心なユダヤ人はメシヤの降臨を待ち望んでいるはずです。

気の遠くなるような話ですね。

キリスト教にとってのメシヤは罪からの解放者!

イエス・キリストの「キリスト」と「メシヤ」は同じ意味です。 キリスト教にとってのメシヤとは、罪からの解放者というニュアンスが強いですね。

「罪の有る無し」というのは全人類の共通の内容です。 ユダヤ教の場合、ユダヤ人で無ければメシヤも何も意味をなさないですが、キリスト教の場合は「原罪」という言葉使い、全人類には罪があるという考え方があります。

ちなみにこの原罪というのは旧約聖書の一番最初に出てくるアダムとイヴが犯した罪のことです。「失楽園」という物語名でよく知られていますね。

簡単に言えば、イエス・キリストを信じることによってしか、己の罪を清算することはできない、と説いています。

更にイエスは「私はまた来る」という感じの言葉を残しているので、イエスが再臨するまで熱心に信仰生活を行い、イエスまたは十字架を信じることによって、罪の贖いができるという感じです。

イスラム教のとってのメシヤは預言者!

イスラム教でおけるメシヤとは単純に預言者を指すような意味合いで使われるようです。 アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、そしてムハンマドの6名ですね。

ユダヤ教徒とは違い、イエスを預言者としては認めていますが、「神の子」としては認めていません。

ムハンマドこそ最上位の預言者であるという立場です。

死生観の違い。天国や地獄にはどうやっていけるの?

ユダヤ教の死生観は天国も地獄もない。

ユダヤ教の死生観の根源がわかる聖句を3つ紹介したいと思います。

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記2章7節)
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る(創世記3章19節)
ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。(伝道の書12章7節)

これらの聖句を見ると人間は「ちり」から作られ、死後は「ちり」に還ると謳っています。

これがユダヤ教の死生観につながっています。

現実的な死を受け入れ、キリスト教やイスラム教のように死後の世界としての天国や地獄の概念はありません。

キリスト教の死生観は天国と地獄

キリスト教はご存じの通り、死後は天国や地獄という永遠の世界に入っていくという考え方を持っています。

そしてそれは現世での生き方によって決まります。

簡単に言えばイエスを信じたものは天国に行き、それ以外のものは地獄に行きます。特に自殺をした人は地獄でも最も悪い地獄に行くとなっており、逆に日本にはそうした概念がないので自殺者が多いとも言われますね。

イスラム教の死生観も天国と地獄

イスラム教における死はキリスト教に近く、天国や地獄など永遠の世界に入る、という考え方です。

キリスト教も同じですが、これらに共通するのは現世での生活は「仮」の人生であり、死後の来世こそが本番である、という考え方です。

来世中心主義とも言いますね。

生きている間にその人がした善行や悪行が記録されており、最後の審判で天国行か地獄行かが決まります。

イスラム過激派がたまに行う自爆テロも「来世中心主義」を利用し洗脳した場合があります。

自爆テロを行い、自分たちの理念の為に戦うならば「死後、天国に行って72人の処女に迎えられ、ありとあらゆる酒池肉林が待っている」と教えるわけです。

もちろんそれは過激派の話ですので、ちゃんとしたイスラム教は極めて寛大ですし、立派な信仰心を持っています。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの教えの核心は何?

最後にそれぞれの宗教の教えの核心について見ていきたいと思います。 要約すると下記の通り。

ユダヤ教:行儀的。律法を守ることが善とされる律法主義。選民思想。
キリスト教:愛敵の教え。謙遜、柔和、悔い改め。イエスと十字架への信仰
イスラム教:六信五行などの善行を重視

同じように一神教を信じる宗教でもかなり違いがあると思います。

ユダヤ教の教えは律法中心。守れば善、破れば悪。

現代でもここまで厳密なのかは不明ですが、ユダヤ教はとにかく律法を守ることを第一とします。

モーセの十戒を命懸けで守るような感じですね。実際にはもっと具体的な戒律がたくさんあります。

そしてもう一つユダヤの思想で重要なのは選民思想です。 選民思想とは「ユダヤ民族こそが神に選ばれた民である」とする考え方です。すなわち民族主義ですね。それを宗教で強固にしているので強烈な民族主義です。

基本的にユダヤ教徒にはユダヤ人でないとなれないと思ったほうがいいです。 だからユダヤ人は純粋な血統を重んじる性質があります。

キリスト教の教えは、愛と赦し。しかし行動よりも内面を重視。

キリスト教といえば十字架だろう。
十字架を神聖視し大切にする。
だが別にこれはイエスが言ったことではもちろんない。
当たり前である。
イエスは十字架によって刑を受けたのだから。
イエスの死後、神学的に後付けされたものに過ぎない。
十字架は当時最も忌み疎まれるものだった。
当たり前である。
それは一番苦しい処刑の仕方だったのだから。
キリスト教はこの十字架のイメージを救いの象徴であるかのように甘美なものにするのに大変苦労したようである。

個人的にはキリスト教のほうが本質的な気がします。 ユダヤ教の場合は極端な話をすれば、戒律さえ守っていれば、それで義とされるわけです。

心の中でどう思っていようが関係ないわけですね。 例えば次の聖句、

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイによる福音書5章27節)

イエスは心の中で思うだけで既に罪であると説き、人間の内側に宿る罪を清算する必要性について教えました。

そしてキリスト教では罪を贖うためにはイエスと十字架を信じることであると教えているわけですね。

イエスの言葉については以下の記事で詳しく紹介しています。

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イスラム教の教えは六信五行!『信仰対象』と『善行』の勧め

六信とはその名の通り、6つの信じるべき対象です。

・唯一神(アッラーフ):アッラーのみが神である。唯一神。
・天使(マラーイカ) :天使の存在を信じる
・啓典(キターブ) :預言者を通してくだされた経典を信じる。クルアーンなど。
・使徒(ラスール) :預言者が神から使わされた存在であること
・来世(アーヒラ) :死後の世界
・定命(カダル)  :人間の運命はアッラーの定めたものである

五行とは義とされる行いですね。具体的な行動です。

・信仰告白(シャハーダ):「アッラー以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒である。」と唱えること
・礼拝(サラート):1日5回、メッカの方向に向かって祈る。
・喜捨(ザカート):自分の財産の一部を貧しい人に分け与える。
・断食(サウム):イスラム暦の9月(ラマダーン)には飲食や性行為をしない。
・巡礼(ハッジ):一生に1度、聖地メッカに巡礼する。

この教えは非常にわかりやすいですね。

まとめ

どうでしたでしょうか。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は似ているようで実態は全然違うということがお分かりいただけたのではないかと思います。

しかし、この3つの宗教に分かれてしまった大きな要因はやはりイエスに対する解釈でしょう。

逆に言えばそのすり合わせを行うことがお互いに歩み寄る最善の手段である気がしてならないのです。 最後までお読みいただきありがとうございました。