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人間の『原罪』とは何? 自己中心性を与えた人間の根本的な罪について説明する。

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こんにちは。
『原罪』という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
無宗教だとあまり聞く機会はないかもしれないですが、一般の人にもわかりやすくいうと全ての人間が持っている罪や悪性の根になっているものです。

人間はとても不完全な生き物ですよね。
能力のことをいっているのではありません。これは人間の『意志力』のことを言っています。やってはいけないということを知りながら、ついついやってしまったり、やるべきことを蔑ろにしてしまったり、だれでも経験あるでしょう。

新約聖書のイエスの逸話の中にもこのようなものがあります。
姦通の罪を犯した娼婦が律法学者たちに石で打ち殺されそうでした。するとイエス・キリストはその人たちにこういいました。
『あなたたちの中で罪のない人が一番初めにこの女に石を投げなさい』と。
すると誰も石を投げる人は誰もおらず、皆立ち去ってしまったという話です。

この話のようにどんなに立派に見える人でも後ろめたいことが全くない人はいないでしょう。

もし、一神教の言うように神が人間を造ったとして、その創られた人間が不完全であるのはなぜでしょうか。

キリスト教ではその説明のために全人類は『原罪』を持っているとしています。そしてそれは旧約聖書に出てくる人間始祖の『アダムとエバ』が神の戒めを破った罪が全人類に遺伝されているというのです。
それが『原罪』です。

じゃあ、具体的にはアダムとエバが犯した罪は何でしょうか?

よく聞くのは『禁断の果実』を食べたことですね。

神はアダムとエバに『善悪を知る木の果はとって食べてはならない。食べたらきっと死ぬであろう』といいました。

キリスト教の宗派の中には、『善悪の木の果を食べたこと』が罪となったと信じている人もいるでしょう。

でも私ははっきり言いますが、それは間違っています。

考えてみてください。

例えば、たまに聞くように『林檎の果実』を食べたことが罪になると思いますか?

ましてや、『アダムとエバ』の時代から今に至るまで遺伝されるような罪になるでしょうか。

果物を食べることが罪になるなどあり得ないです。

実は聖書には、文章のごとく、つまり読んで字のごとくではなく、あえて比喩とか象徴でもって書かれている部分が多くあります。

つまり、この『善悪の木の果を食べた』ということは実際の木の果実を食べた、ということではなく、もっと具体的なことなのです。

そしてキリストではそれが長らくわかりませんでした。

聖書をただ読むだけではわからないからです。

聖書を現実に照らし合わせた想像力を働かせないとその本質はわかりません。

それでは今からそれを解説していきたいと思います。

それでは。


まず『生命の木』と『善悪を知る木』が何を示しているか?

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聖書には次のような記述があります。

16) 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 17) しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

この善悪の果をとって食べたことが『原罪』になったのですが、この『善悪の果』とか『善悪を知る木』といったものが本当に何かの樹だったのでしょうか。

まずはそこから明らかにしていきたいと思います。

それは逆説的に行います。
つまりもし、これが何かの樹であったとすると4つか5つの疑問が出てきます。

その一つ目は人間の父母としていらっしゃる神が、何故アダムとエバが取って食べて堕落する可能性のある果実を、わざわざ「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのだろうか、ということです。

当たり前ですよね。

キリスト教の言うように神が人間を愛しているのなら、わざわざ堕落する可能性のある木を人間のそばに置いたりしないはずです。

神が意地悪な神であったなら、それもあり得ますが、一神教の神は普通、善なる神であり愛の神です。

次にイエス・キリストの言葉の中に正反対のものがあります。

「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ一五・11)

イエスははっきりと、口に入るものが人を汚すことはない、と言っています。また人間の『原罪』を今の人類も持っているとすれば、それはアダムとエバから遺伝して受け継がれてきたということです。

では『林檎』を食べた、という事実が遺伝することなどあり得るでしょうか。
通常ただの果実が人間の遺伝子に影響を与えることなど考えられません。

またキリスト教のある宗派では神が人間の信仰を試すために善悪の知る木を近くに置いたんだ、という方もいます。

しかし、神がそのような行いをするのは正しいことでしょうか。ましてや人間の命が危うくなるようなやり方でもって信仰を試す必要性もそもそもありません。

旧約聖書でアダムとエバは神と会話をしています。

神から言われた、『取って食べるな、食べたらきっと死ぬであろう』という言葉を二人が信じるのは難しいことでしょうか。

もし神から直接言われたら、信じざるを得ないでしょう。
つまり、それを信じることは簡単なのです。

そう、アダムとエバは『食べたら死ぬ』ということを知っていたのです。

エデンの園にはほかにもいろいろな果実があったとあります。つまりアダムとエバは飢えていたわけでもありません。

さて、死ぬということを知っていながら、死を覚悟してまで『林檎の果実』を食べる人がどこにいるでしょうか。

それはあり得ません。

逆に言うと、死んだとしても欲するような、そんな強烈な刺激を与えることのできる『何か』、それが『善悪の果を食べた』ということなのです。

言い換えると、それは時には『人間の命よりも大事なもの』だということです。

命よりも大事なものって何ですか。

答えは『愛』です。

親は命懸けで自分の子供を守ろうとしますよね。自分の命よりも子供に対する『愛』の方が大事だからです。

しかし、『愛』というものには昨今いろんな形があり、スキャンダルになることもあります。

そしてそれが人間の中にあるすべての『自己中心』の根源となっているのです。

ということで、もう正解は言いましたが、もう少し詳しく『原罪とは何か?』ということを見ていきます。

聖書では『善悪の果を食べた』ということが『原罪』であり、それが何を示しているかを知ろうと思ったら、『善悪を知る木』はどういう意味か、ということを知らなければなりません。

しかし、聖書に中には『善悪を知る木』が出てくるところは2箇所ほどしかありません。

そこでまず、『善悪を知る木』と一緒に生えていたとされる『生命の木』が何を指しているかを明らかにし、そこから『善悪を知る木』は何か?ということを類推するようにします。


エデンの園に生えていた『生命の木』って何を表しているの?

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そもそも『木』とは聖書において何を表しているのでしょうか?

木々が、だれかに油を注いで/自分たちの王にしようとして/まずオリーブの木に頼んだ。『王になってください。』(士師記/ 09章 08節)
わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。(詩編/ 052編 010節)
もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。(ローマの信徒への手紙/ 11章 24節)

いくつか聖句を抜粋してみました。
聖書では時折、『人』を『木』に例えることがあります。
特に最後のローマ人への手紙の聖句は有名な句です。野生のオリーブの木とは信仰のない人を指しています。それに対してよいオリーブの木はイエス・キリストのことです。
簡単に言うとイエス・キリストを信じることを『接ぎ木』と表現しているのです。

では『生命の木』という言葉は聖書にどのくらい出てくるのでしょうか。

知恵は、それをつかむ人にとって生命の木。/知恵を保つ人は幸いである。(:箴言/ 03章 18節)
正しき人の結ぶ実は生命の木/知恵ある人は人々の魂を捉える。(箴言/ 11章 30節)
癒やしをもたらす舌は生命の木/よこしまな舌は気力を砕く。(箴言/ 15章 04節)

旧約聖書には以上のような聖句があります。
これによると『生命の木』は『知恵』のあるものであり、『正しき』人であり、『癒しをもたらす舌』であるということになります。

さて、これらを総合すると『生命の木』とは、元々は『人間』を象徴する言葉であり、成長して立派に完成した『男性』であるということがわかります。

エデンの園では最初は『アダムとエバ』しかいなかったので、『生命の木』とは『完成したアダム』を示していたということになります。


ではエデンの園に生えていた『善悪を知る木』とは?

今見たように『生命の木』は『完成したアダム』を表しているといいました。

では、『完成したアダム』を示しているものがあるなら、同様に『完成した女性またはエバ』を示すものがあってもいいのではないでしょうか。

もうわかりますね。
それがすなわち『善悪を知る木』となります。

よって『善悪を知る木』とは『エバ』を示しています。


『アダムとエバ』を誘惑した『蛇』って何?

『善悪を知る木』が『エバ』であるとわかったので『善悪の実をとって食べる』ということがどういうことなのかを明らかにしてもいいですが、その前に『蛇』について紹介します。

『蛇』もやはり何かの象徴であり、別の『何か』を示しています。
なぜそう言えるかというと以下に示すような理由からです。
・人間と会話を交わすことができた。
・霊的な人間を堕落させた
・神が人間に『善悪の実』を食べさせまいとした意図を知っていた。

人間と会話ができる蛇なんていませんよね。それは昔も同じです。また人間には霊人体といわれる霊的な体があります。
その人間を堕落させたのですから、この『蛇』も極めて霊的な存在です。
それは次の項からもわかるようにこの『蛇』は神が人間に与えた『取って食べてはならない』という『戒め』を知っていたのです。
つまり元々は神にも非常に近しい存在であるということです。

次のような聖句もあります。

この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。(ヨハネの黙示録/ 12章 09節)

『蛇』のことを何と言っていますか。『悪魔』とか『サタン』ですね。

人間は『原罪』があるので常にこのサタンの影響を受けています。だからすべての人類が我知らず悪なる行為に走ってしまうことがあるのです。
この蛇を悪魔でありサタンであると呼んでいますが、このサタンは人間の堕落以後今日に至るまで、常に人間の心を悪の方向に引きずってきたものなので、これは霊的存在でなくてはならないわけです。

蛇として比喩されているこの霊的存在は、元々は善を目的として創造されたある存在が、堕落してサタンとなったものであるということができます。

よって『蛇』の特徴をまとめると
・神から創造された霊的存在
・人間と会話することもできる
・神の目的も知っている
・元々の所在は天にあり、常に人間の心に影響を与える

これらを総合するとこの『蛇』は『天使』を表したものであるということです。

『天使』などというと無宗教の方は信じられないと思いますが、霊的な存在である『天使』は実在します。天使は神のお手伝いをする存在です。

とりあえずそのような仮定で話を勧めます。


天使の罪と人間の罪は何だったの?

では、天使と人間始祖のの『アダムとエバ』はいったいどんな罪を犯したのでしょうか?

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これはつまり『善悪の実を食べる』ということと直結するんですが、まず天使の罪はどのような罪だったかということについて触れている聖句があります。

「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」(ユダ書6-7)

それが上の文章です。
これはちょっと省略されていてわかりづらいんですよね。
文章の前半と後半は主語が違います。
前半の主語は誰ですか。

『御使たち』という言葉があるので、これは『天使』について言っています。
つまり天使たちが自分たちの地位を捨て去った、ということです。
では後半の主語は何ですか。

『ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、』とありますね。

ソドムとゴモラというのは神の怒りに触れて、滅ぼされた町です。
町ということはこの文の主語はその町に住む『人間たち』です。
さてここで重要なのは『同じように』というこの一節。『何』と同じようにですか。

もうわかりますね。これは『天使たちと同じように』ということなので『天使たち』という言葉が省略されています。

つまり元々天使が犯した罪とは『淫乱』の罪であったということがわかります。

では人間が犯した罪は何でしょうか。
これは『アダムとエバ』が『善悪の果を食べる』前後の彼らの態度から明らかにできます。

25) 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

これは『食べる前』です。

7) すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

そしてこれが『食べた後』です。
つまり『食べる前』は裸でも恥ずかしがらなかったにも関わらず『食べた後』は裸を恥じてイチジクの葉で腰を覆いました。

『下部を覆った』のです。

もし『善悪の実』が林檎か何かでそれを食べたとすれば、どこを隠しますか?

ふつうは口です。恥ずかしいと思ったその部分を隠すのが人の本性だからです。

でも『アダムとエバ』は『下部』を隠しました。なぜですか?『下部』が恥ずかしいと思ったからです。

つまり『下部』で罪を犯したのです。

よって『天使』も『人間』も犯した罪は『淫行』の罪でした。

そしてそれは、『天使』と『人間』の間にも成立しました。それはイエスの言葉にも表れています。

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」(ヨハネ8/44)
悪魔はすなわち、サタンであり、サタンはすなわち、人間を誘惑した古い蛇である(黙示録12/9)

イエスは律法学者たちに対して、『お前たちの父は悪魔』だといっています。そして黙示録では悪魔はサタンであり、それは人間を誘惑した古い蛇であると明言しています!!

これだけはっきりと書いてあります。


では『善悪の果』とは何?

ここまで来て『善悪の果』とは何でしょうか?それは『エバの愛』です。
『善悪の果を食べた』というのは、『エバを食べた』つまり『エバと性関係を持った』ということを示しています。
そしてそれが人間の『原罪』となったのです。

性関係は血統に連結されるので、今現在も全人類に遺伝されているのです。
エバは最初に天使と『性関係』を持った後、アダムとも『性関係』を持ちました。

このようにして人間の中に『自己中心性』が芽生えたのです。


罪の根となった『原罪』の定義をまとめると?

人間の『原罪』はこれまで非常にあいまいなまま残されてきました。
2000年の歴史のあるキリスト教も明確にできなかったのです。それが近年に明らかになりました。
『原罪』とは何でしょうか?それは一言でまとめると
『人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあった』といえます。

『淫乱』の罪というのはいつの時代の人々に付きまとってきました。それはあっという間にその人を破滅させるほどの魔力がありました。

有名人がスキャンダルになったり、国家の興亡盛衰を左右したり、不道徳、不倫によって転げ落ちていく人々を私達は常に見ています。

それは、人間の自己中心性が本来どこから出発したかということを理解できていないために起こってしまうのです。

自身の『性』をコントロールすることこそ、自分を正しく修め、良心に恥じない生き方をするために最も重要なことなのです。

じゃ。