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世界中の人々の魂を救う『イエス・キリスト』の『名言』を信仰歴10年の僕が解説するよ。

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こんにちは。
イエス・キリストってご存知ですか?
おそらく無宗教の日本人でも名前くらいは誰でも知っているでしょう。
実際、歴史上の人物の中で『イエス・キリスト』以上に世界中の人々に多くの影響を与えた人はいないです。今なお、すべてキリスト教徒とそうでない人々にも影響を与え続けている訳ですからね。
僕はキリスト教徒ではありませんが、自身の信仰をもって10年ほどです。
そんな僕が今日は『イエス・キリスト』の『名言』について紹介と解説をしたいと思います。なお、本当は『名言』というよりも『み言(みことば)』といったほうがしっくりくる呼び方なのですが、より一般の方に聞きやすように『名言』としています。
イエス・キリストの影響を知るためにまず二つの事実を挙げたいと思います。
一つは西暦の数え方。
ご存知の通り西暦1年は『イエス・キリスト』が生まれた年を基準としています。
日本でも西暦使いますよね。
二つ目は民主主義の出発となったのは、カトリックの中から生まれた『プロテスタント』です。
『清教徒』と呼ばれた人々がイギリスからアメリカにわたり、両国において『民主主義』を確立しましたよね。
『イエス・キリスト』が享年33歳という短い生涯でなぜそれだけ多くの人の心に残り、今なお世界中のクリスチャンに愛されているのかと言えば、その言葉が人々の共感を得る、否、それ以上に人々の良心に直接働きかけてくるような切れ味と、その生涯で示した姿が愛の本質を伝え続けているからではないかと思います。

今回は新約聖書の中から、『イエス・キリスト』の教えの根幹となっている『名言』を紹介します。無宗教の方でも感銘を受けます。
ちなみに4つの福音書はいずれもイエスの生誕から十字架で亡くなり、復活するまでを各使徒マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが記述したものであり内容は大体同じです。
文の前の数字は新約聖書の何章何節を示しています。



マタイによる福音書

第5章

5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

とても有名な『イエス・キリスト』の言葉です。
次の部分も含めてイエスの『山上の垂訓』といいます。
『こころの貧しい人たち』というのは現在の表現とは反対にニュアンスである気がします。つまり、嫉妬や憎悪、我欲というよりも謙虚、温和、感謝、慈悲であふれている心の持ち主のことだと思います。


5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

姦淫というのはユダヤ教では厳罰に処されます。
現在どうなのかはわからないですが、当時では石で打ち殺されるくらい大きな罪となります。
でもここでイエスが言いたいことはもっと深い内容です。
イエスは姦淫の『行動』だけでなく、心の中で邪な、淫乱な想いを持っただけですでに罪を犯しているよと言っています。
ユダヤ教の法律は概して『外的な行動』を制限するイメージが強いです。
有名なモーセの『十戒』に代表されるように『殺人するな』とか『強盗するな』とか『姦淫するな』とかそういう感じです。
でもイエスは『心の状態』について説いている訳です。
人の本質は『心の中で想うこと』の時点で決まっているということですね。
筆者も時々思うのは、やはり心のきれいな人になりたいということです。


5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42求める者には与え、借りようとする者を断るな。

『目には目を、歯には歯を』というのはユダヤの教えです。
目を潰されたら、相手の目を潰して報復してもよい、という意味です。
簡単に言えば、『やられたら、やり返せ』という理論です。
でも『イエス・キリスト』が教えたのは『愛敵の教え』でした。
それは『自分を憎むもの、敵対するものも愛しなさい』という内容です。
自分の敵を愛するというのは難しいことですが、今の世の中に不要なことでしょうか。
僕はそうは思いません。
敵を愛することができれば、争いが起きることはあり得ないからです。
『イエス・キリスト』が説いた『愛の本質』がどれほど『レベルの高い愛』であるか何となくでも伝われば幸いです。
人を憎んだり、恨んだりするよりも、愛することを実践するのはいいことですか、悪いことですか?


5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

同様に『愛敵の教え』の部分です。


第6章

6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

『自分の義』とは何か善いことをすることです。
『見られるために』というのは、『自分はこんなにいいことをしているんですよ』と人にアピールするために善いことをするのはやめなさい、ということです。
それは結局自分のためにやっているので『偽善者』になってしまう可能性を孕んでいます。
しかし、『善い事』をするときには少なからず、このような想いが付きまといますよね。
でもそれを知っているだけでもより純粋に『善い事』が出来るのではないでしょうか。


6:5また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

僕自身も、周りの人が見ているから『善い行い』をするのではなくて、誰も見ていなかったとしても、『善い行い』が自然とできるような人間になりたいと思います。


6:14もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

人を赦すことの大切さを説いています。
僕は個人的にはキリスト教国家ではない日本人も『人を赦す』という文化というかここの備えが弱いように思います。
家族でも友人でも『赦す』ことが出来なければ、これまであんなに仲が良かったのに、突然絶縁状態になってしまうようなことを職場などでも時々目にしますよね。
キリスト教徒の場合は、自分自身も神によって、または『イエス・キリスト』によって赦されているという信仰が他人に対する寛容さを得ることに繋がるわけですね。


6:16また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

断食を人に見せるために行う人に対していっています。


6:24だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
6:25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

必要以上に自分の衣食住を心配して、神に対する信仰をおろそかにしてはいけないよと説いています。
『神と富とに兼ね仕えることはできない』という記述を基にアメリカの富裕層では死ぬときに多くの財産を寄付することがあります。
この『イエス・キリスト』の言葉ゆえにキリスト教では清貧主義というものが流行った時がありました。
つまり貧しい生き方こそ神に近い、というイメージです。
後にキリスト教徒でも『お金を稼ぐことは、そのお金をもって人々を幸せにできるので悪いことではない』という考え方から出てきたのが『資本主義』ではないでしょうか。
『イエス・キリスト』の当時はまだそこまで人々のレベルが高くなかったので、神と信仰を優先するほうが大事だよ、ということを強調する意味で『イエス・キリスト』はこのように言っています。


第7章

7:1人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。
7:4自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

とても分かりやすい例えですね。
周りの人をむやみに非難したり裁いたりするな、ということです。
自分自身にも様々な欠点や至らないこともたくさんあるのだからそれらを棚上げにして、どうして人のことを悪く言うことができるのか、と言っています。
まず自分自身を正しく律することができてこそ、人を正しい方向に導けるというのです。
政治家や教師など、特に人を教育する立場の人は肝に銘じるべき『イエス・キリスト』の『名言』だと思います。


7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

『イエス・キリスト』は神は『人間の父である』という概念を説きました。
イエスが現れるまでの神は『超越者』です。人間とは異なる存在です。
でも『父』となるとそれは家族です。人間と近い存在です。

では『自分が人々からしてほしいこと』とは何でしょうか。
人はすべからく自分のことを理解してほしいと思っています。だから『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ』とは、周りの人のことをまず、理解するように努めなさい、という感じになるかと思います。


第13章

13:3イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9耳のある者は聞くがよい」。
13:18そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

この例えは『イエス・キリスト』の『名言』を聞く人のことを種まきに例えています。
まかれる種が御言でまかれる地が人です。
初めの『道端にまかれたもの、石地にまかれたもの、いばらにまかれたもの』は徐々に俗人の言葉や文化に流されていったり、困難な状況で『イエスの言葉』を忘れてしまう人で、良い地にまかれた人は決して御言を忘れずに実践する人のことです。
このようにイエスは多くのことを例えで語りました。


第18章

18:1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

『自分を低くするものが一番偉いのである』というのは簡単に言えば謙虚さを持ちなさいと言うことです。
自分の身分を高くしようとするのはなくて、自ら人に仕え低くしようとする人程、自然に立場が上がっていくということです。


18:10あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
〔 18:11人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

キリスト教では信徒のことを『羊』に例えます。
ある人というのはここでは『神』のことを指していて、『羊』は人間です。
つまりたった一人でも迷っている人が救われたなら、神はそれを見て喜ばれるだろう、ということを言っているわけですね。
『民主主義』というには『個人』を大切にします。
これは『神』が人間という種全体を愛しているのではなくて、個人個人、一つ一人を尊く想い、愛しているという事実から来ています。


18:21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
18:23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
18:24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
18:25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
18:26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
18:27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
18:28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
18:29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
18:30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
18:31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
18:32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
18:34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。
18:35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

とても面白い例え話ですね。
あるしもべの人が主人に対して借金がありました。
しかし返せなかったので赦しを請うたところ主人は哀れに思って赦してあげました。
しかし、そのしもべも自分がお金を貸している人がいて、返してもらえなかったので、獄に引きわしたということです。
するとそれを知った主人は怒って『私はお前のことを赦してあげたのに、なぜおまえはその人のことを赦してあげなかったのか』といって獄につないだというのです。


第19章

19:23それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

これも非常に有名な『イエス・キリスト』の『名言』です。


第20章

20:1天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
20:2彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
20:3それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
20:4そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
20:5そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
20:8さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
20:9そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
20:11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
20:12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
20:13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
20:14自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
20:15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
20:16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

ブドウ園の主人が人を雇って働いてもらいます。
その時に初めの方の人は朝から働いて、後の人は5時から働いたのに主人は両方に1デナリずつ支払います。すると朝から働いた人がなぜ短い時間しか働いた人にも自分たちと同じように賃金を払うのかと憤慨するというのです。
しかし主人は私はあなたに対して不正はしていないと答えます。

このたとえ話の本質は最後の一文ではないかと思います。
『あとの者は先になり、先の者はあとになる』
これは実は『後から来た人の方が先に天国に入るようになる』ということが言いたいのですが、それはなぜでしょうか。
ここではこれ以上説明はできません。とても複雑だからです。
ですが、この世の中でも『後のものが先になる』という現象はよくあるということを知ってもらいたいです。
時が流れるにつれて世の中はどんどん便利になり、効率的になり、効果的になっていきます。
例えば、昔の日本社会では夜遅くまで残業し、残っているほうが評価されたかもしれないですが、その業務内容は現在と比べると稚拙で非効率的なものが多々あるのではないでしょうか。
僕は若い世代の人の方が基本的に優秀だと思っています。
でもそれは当たり前ですよね。なぜなら過去に生きて死んだ人が築き上げた基盤の上に現在の人が在るからです。
だからこそ、年配の方は自分のしてきたことをわざわざ誇る必要もなし威張る必要もなく、若い人々は古い時代の価値観を見下す必要も軽視する必要もないのです。


21:28あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
21:29すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
21:30また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
21:31このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。

このときのイエスはパリサイ人や律法学者に対して話をしています。
ヨハネと言うのは『洗礼ヨハネ』のことでイエスよりも先駆けて洗礼を授け、人々に悔い改めを説いた人物です。
『取税人や遊女』と言うのは卑しい身分の人たちです。
イエスはそのような人たちの方が、純粋にイエスの言葉を信じるので律法学者(要するに知識人たち)よりも先に天国に入るようになる、と言っています。


21:33もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
21:34収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。
21:35すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。
21:36また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。
21:37しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。
21:38すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。
21:39そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。
21:40このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。
21:41彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。
21:42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書をまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。
21:43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
21:44またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
21:45祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、
21:46イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

これも『イエス・キリスト』のたとえ話であり、律法学者やパリサイ人と呼ばれるユダヤ教の知識人たちに対していっています。
この話に出てくる主人は『神』、農夫は『律法学者たち』、しもべは『預言者たち』、子供は『イエス・キリスト』のことを指しています。
主人が農夫に畑を貸して、時がきたからしもべを送って分け前をもらおうとしたところ、しもべは農夫たちに殺されてしまいます。
イエス・キリストの前にきた預言者たちは実際に雑な扱いを受けてきました。
主人は自分の子供であれば、丁重に扱ってくれるだろうと子供(つまりイエス・キリスト)を送りましたが、農夫は子供も殺しました。
実際、そのとき律法学者たちはイエスを殺そうとしていたのです。ですのでその状況を揶揄しながらイエスは語ったのです。


22:35そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
22:36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
22:37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
23:11そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
23:12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
23:13偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
〔 23:14偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕
23:15偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

このようにイエスは自分の言葉を聞きながらもそれを受け入れようとしない律法学者達を痛烈に批判しています。


25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。
25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。
25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。
25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。
25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。
25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

ここでタラントはお金の単位として出てきますが、実はこの『タラント』という言葉は英語のある単語のもとになっています。
すなわち『talent』、『才能』ですね。
5タラント、2タラント与えられたものはそれをもってさらに多くのお金を稼ぎました。
1タラント与えられたものは、それを隠しておき、何も得ませんでした。
簡単に言えば与えられたものも磨く努力をしなさいということではないでしょうか。


マルコによる福音書

第4章

15:11また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
15:12ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
15:13それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
15:14何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
15:15そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
15:16彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
15:17そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
15:18立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
15:19もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
15:20そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
15:21むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
15:23また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
15:24このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
15:25ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、
15:26ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
15:27僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
15:28兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、
15:29兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
15:30それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
15:31すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
15:32しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

これも有名な『放蕩息子』の話です。
弟が父親の財産を使って遊び倒している間に兄は家で働いていました。
弟は何もなくなったので家に帰って父親に謝って、もう息子としての資格はないから、雇ってもらおうと思っていました。
ところがその弟が帰ってきたら父親は、その子に最上の着物を着せ、もてなしたというのです。
兄は当然それを見て怒りましたが、父親は息子が戻ってきたのだから当然だ。といいました。
これもやはりたとえ話で『父親』というのは『神』を表しています。
多くの罪を犯してきた人でも、自分の罪を心から悔い改めて、戻ってくれば『神』は喜んでそこ人を受け入れ罪を赦すということを説いています。
まるでかの有名な『アメイジンググレイス』を彷彿とさせますね。


ヨハネによる福音書

第8章

8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕

これもとても面白い話ですね。
ある遊女が裁かれようとしていました。イエスはその人たちに『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』といいました。
すると結局一人も残らなかった言う逸話です。
実質のところ、罪の意識のない人が一人もいなかったわけです。


第16章

21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」

これはイエスが十字架で亡くなり、復活した後の話です。
なぜイエスはペテロに3回も『私を愛するか?』と聞いたのでしょうか。
イエスが律法学者たちに捕らえられていくときにペテロは元々『何があってもあなたを裏切りません』と言っていたにもかかわらず逃げ出しました。
またその途中で通行人に姿を見られて『あなたもイエスと一緒にいた人だ!』と言われますが、その時にペテロは3回、それを否定しているのです。
ペテロは3回、『イエスなど知らない』と言いました。
実はイエスはその時のペテロの罪を償わせるために3回も『私を愛するか』と聞いたのです。
ペテロはその後、生涯をかけてキリスト教の伝道師となり、最後はイエスの十字架よりも重い刑罰である『逆さ十字架』により亡くなったと言われています。


以上です。
ここで紹介したのは『イエス・キリスト』の『名言』の全てではありません。
もっと知りたいと思った人は新約聖書の最初の4つの福音書を読んでみてください。