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キリスト教の三位一体をわかりやすく解説。単純だけど難解な根幹教義

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三位一体

こんにちは

今日はキリスト教の三位一体について出来る限りわかりやすく解説しようと思います。

三位一体論はとてもシンプルです。しかし実は三位一体論無しではキリスト教は存続出来なかったのでは?と言われるくらい重要な教義です。

本記事の中では

・三位一体とは何か?
・なぜ三位一体の理論が生まれてきたか?
・三位一体論の確立の歴史的な流れ

等々について書いていきたいと思います。

三位一体ってどういう意味?内容だけならすごく単純

三位一体

まずは三位一体の「三位」についてですが、その対象は何でしょうか?

これはよく「父と子と聖霊」といわれますね。すなわち 「神」「イエス・キリスト」「聖霊」の3存在のことを指しています。

聖霊について詳しくは後述します。

では、「一体」はどういう意味でしょうか?字のごとく捉えると「一つの体」となりますが、キリスト教の三位一体では「同質の存在」という意味です。

つまり三位一体とは「神とイエスと聖霊はともに神性を持つ同質の存在だよ」ということです。よって3者は「唯一の神が3つの姿を持ってこの世に現れたもの」と捉えるわけですね。

うーん、わかるようでわからないですね(笑)

この例えが適切なのかはわかりませんが、「水」を例に考えてみます。

別に「水」だけではありませんが、すべての物には物質の三態と呼ばれるものがありますよね。すなわち「気体、液体、固体」です。

水もまたしかりで、0度以下では氷として固体で存在し、0-100度では液体、それ以上になると気体になります。性質や形態は明らかに異なりますが、本質的には「水分子」として「同一の物質」ですね。

このようなイメージです。姿かたちは違うんだけれども、本質は同じ。

三位一体の理論が出てこざるを得なかった理由

僕も三位一体論の結論だけは昔から知っていました。

しかし、最近になって深い理解の為には「なぜ三位一体論がキリスト教の教理において生まれてきたか?」ということが重要だと気付きました。

たまたま出てきたものではありません。三位一体論が必要な「明確な」理由があったんですね。一言でいうと以下の二つです。

・イエス・キリストを信仰の対象としたかったから。
・聖書の内容を忠実に受け入れた場合の「聖霊」の解釈に困ったから。

では詳細を見ていきましょう。

信仰の対象となったイエスをどのように受け入れればいいのか?

キリスト教徒というのは元々ユダヤ教徒の中から生まれてきました。

イエス・キリストはユダヤ人でありながら、従来のユダヤ教とは少し異なる教えを広めました。 その結果、律法学者達(ユダヤ教の知識人)に忌み嫌われ、十字架の刑に処されました。

しかし、その後、復活したイエス・キリストは12弟子たちを再び伝道し、その弟子たちがイエスの教えを世界に広めるようになりましたね。

考えてみてください。当たり前ですが、キリスト教徒にとってイエス・キリストはめちゃくちゃ尊い存在なんですよ。

カトリックの教会に行くと、すごいリアルな十字架につけられたイエスの像があったりします。信徒たちは確実にイエス・キリストを崇めますよね。

これは言い換えると「イエスは信仰の対象である」ということなんです。

実はキリスト教は出発したときからその矛盾を孕んでいました。

なぜかというと一神教のユダヤ教のながれを汲むキリスト教もやはり「一神教」です。偶像崇拝は当然善いものではありません。

つまり、 「あれ?でも俺達ってイエスを崇めてるよね?」って思う人が出てくるんですね。

聖書の主張

キリスト教徒にとって聖書は絶対的な書物です。

特に新約聖書が重要ですが、旧約聖書を用いることもあります。

実は聖書の内容に忠実に従おうとするといろいろな弊害が出てきます。

神は「唯一神」なので偶像崇拝は禁止

旧約聖書にはモーセが神から十戒を授かる場面が出てきます。十戒はユダヤ教の教えの根幹であり、キリスト教にも受け継がれています。

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。(出エジプト記20/3-4)

上記は十戒の①と②ですね。それぞれ「唯一神」「偶像崇拝の禁止」を説いています。

また次に様な聖句もあります。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である(申命記6/4)
世々の支配者、不朽にして見えざる唯一の神に、世々限りなく、ほまれと栄光とがあるように、アーメン(Ⅰテモテ1/17)

これらの聖句に従おうとすると、「偶像崇拝」は善くないことなので、イエスを崇めるのはどうなの?偶像じゃないの?っていう話になるんです。

しかし当然、「イエスは神の子なのだから、別にいいじゃないか!」という人もいたでしょう。

でもやはり「イエスは神の子だけど、神自身ではないよね?いそれともイエスを神とみなせばいいの?」みたいな感じです。

そしてこの議論の論点は「イエスは神そのものか、否か」ということに収束します。 これが一つ目の問題です。

聖書に記述の有る「聖霊」に対する解釈も必要になる

もう一つは「聖霊」に対する解釈ですね。

イエスと同様に「聖霊を神とするか、否か」ということが問題です。

その前に聖霊というものがなぜ出てきたかというと、新約聖書の聖句にあるからです。

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、」 (マタイ 28/19)
主イエス・キリストの恵み,神の愛,聖霊の交わりが,あなたがたすべてとともにありますように (IIコリント 13/13)

前者の聖句は復活した後のイエス・キリストの言葉です。キリスト教徒が絶対的に崇めるイエスが「聖霊」という存在について完全言及していますよね。

これによると聖霊はバプテスマ(洗礼)を授ける力があるように言っています。聖霊は権能や力の源のようなイメージです。

「力の源ということは神の力と同一なの?そうじゃないなら聖霊って何?聖霊を崇めることは偶像崇拝になっちゃうの?」

やはりこのような疑問が出てきてしまいます。

でも聖書の聖句は既に「イエスが言った」ということで記録されちゃっています。従ってキリスト教徒はこれをいかに解釈し聖書と矛盾なく受け入れられるかという難題にぶち当たりました。

これが二つ目の問題であり、三位一体論が必要になった理由です。

聖霊とは何か?ということについては最後に少し補足します。

聖書に矛盾なく「イエス」と「聖霊」を受け入れるために必要な理論は?

ここまでをまとめるとクリアしないといけない課題は二つですね。

・イエスを信仰の対象としても、偶像崇拝にならない
・聖霊の力を神のもの(神性)としても多神教にならない。

これを何とか説明しようとして生まれてきた解釈がまさに「三位一体」論となります。

・イエスは神と同一の存在なので、崇めても問題ない。
・聖霊の力は神と同一なので、多神教にならない。

となります。

ただ、これも全然完璧な理論ではなくて、むしろ穴だらけだったりします。(こんなこと言うとクリスチャンを怒らせてしまうかもしれないけど)

特に無理があるなーと個人的に思うのが、イエスの十字架の場面ですね。

イエスが十字架上で処刑されるときに次のような言葉があります。

そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15/34)

これですねー。 僕は個人的にはキリスト教の三位一体論はちょっと間違ってると思ってます。「イエスが神と同等である」とした場合に、この聖句が全く説明つかないんですよね。

なぜイエス(=神)が「どうして私をお見捨てになったのですか」なんて神に言うんですか。

いや、言わないですね、絶対。よってこの場面は明らかにイエスと神は別個の存在であるということを示しているように思います。

ただ、一応キリスト教でもその反論があるので紹介すると

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(Ⅰヨハネ4/9-10)

この聖句を元に反論するようです。つまりイエスを十字架につけたのは、人間の罪深さを明らかにするためのもので、復活したイエスによって神の愛を示すためのものだ、といった具合です。

「神の愛を示すため」にイエスを十字架に送った、ということです。

うーん、わからなくもないですが、それだとイエスの十字架って結局神の自作自演ですよね?(またこんなこと言うと怒られそうですが)

それはやっぱり厳しいでしょう。理論的に。

三位一体確立までの歴史的な流れは?

では三位一体論が確立される前の歴史的な出来事について簡単にまとめておきたいと思います。 ここまで書いたようなことを最初に言いだしたのは「アリウス」という人物です。

アリウス(250年頃 - 336年頃)の主張

アリウスの主張を受け入れた人たちを「アリウス派」と呼んだりします。 アリウスは次のようなことを言い出しました。

「神だけが神であり、子は神ではない。子は存在しなかった時があり、子と神は異質的である。また、父は創造者であるが、子は、他の被造物と同じく、先在において神の意志によって無より造られた。

すなわち父なる神と子なるキリストとの間には、差別があり、キリストは第二義的なものである。ところが、そのキリストは、全ての被造物の最初で最大のものとして父なる神から創造され、そのキリストが宇宙を創造した。

つまりキリストは神の仲介的代理人であって、全ての被造物はキリストを通して創造されたのである。キリストに与えられた力と栄誉のゆえに、キリストは神として仰がれ、礼拝されるべきである」

簡単に言うとアリウスは神とイエス・キリストを区別しようとしたんですね。その主張は「イエスを地上に生まれる前はいなかったじゃないか、明らかに神と性質が違うだろう。でもイエスは神から最も偉大な者として創られたので、崇められるのは当然だ」 こういうことですね。

でもこれは熱心なキリスト教徒からすれば、イエスを貶める発言にならざるを得ないわけですよ。「第二義的」といっていますからね。

それでキリスト教社会が相当混乱したんですね。

イエスの神性が認められたニカイヤ公会議(325年)

アリウスの主張を何とかするためにコンスタンティヌス皇帝が開いた会議が「ニカイヤ会議」です。

この会議の中で議論が重ねられ、「イエスを神は本質的に同等」とする宣言が出されました。

公にイエスを神と認定した会議です。ただ、この時はまだ聖霊に対する解釈までは言及されず、以後の課題として認識されただけでした。

アリウス派もこれで納得したわけではなく、その後も主張を続けました。

コンスタンティノープル公会議(381年)で三位一体論が確立

アリウス派がまた発言力を強めてきたので、その落としどころとなったのが三位一体論です。

三位一体論では「イエスは神だけど、現れ方が神とは違うよ」ということで、イエスは神だけど人間の姿をとって地上に現れた、という考え方になりました。

またこの会議の中で聖霊の「神性」が認められたので、聖霊も本質的には神と同等ということになりました。ニカイヤに続く会議で制定されたので「ニケイヤ・コンスタンティノポリス信条」と呼ばれます。

この会議で三位一体論が確立されたと考えられます。

三位一体に関する補足情報

途中で割愛した三位一体に関する補足情報です。

キリスト教にはいくつも宗派がありますが、最も代表的な者はカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教ですね。 実は三位一体論はその3つすべてで採用されています。

ちなみにカトリックとプロテスタントの違いについては以下の記事で紹介しています。

www.kenya316.com

そのように考えると、キリスト教にとってどれだけ重要な神学であるのかということがなんとなく分かりますね。

また三位一体は算数的に表現すると「3=1」ということですよね。

そしてこれは算数的に考えると明らかに間違っています。3と1は違います。

従って、三位一体論はほとんど暗黙の了解として「理性では理解できない」という考え方が根底にあります。つまり「元々理論的に納得できるような代物ではない」と捉えるんです。

これは先ほど挙げた、「イエスの十字架上の言葉」等、反論の余地がいくらでもあるので、もうどうしようもなかったんだと思います。

よって三位一体論は「理解するもの」ではなく、これも一種の「信仰の対象」である、ということになります。

うーん、なんだかなぁ。

最後に聖霊はどのような存在かということですが、いくつか聖霊に関する聖句を載せます。

「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。(使徒行伝1/5)
「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたはを受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。(使徒行伝1/8)
「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。」(使徒行伝1/16)

これらの聖句を通して聖霊を見る時、その特徴は

・洗礼を授ける権能がある
・力を授ける存在である
・人間に預言を授ける

といった側面が見受けられますね。またキリスト教の有名な「ペンテコステ」を起こしたのがまさに「聖霊」であり、文字通り「聖なる霊」と捉えてもらってもいいかもしれません。

個人的な意見としてはまるで神がすぐ近くにいるような「心霊的な状態」「神秘的な体験」は聖霊が臨んだ結果だと考えています。 ペンテコステについては以下の記事で紹介していますので参考までに。

www.kenya316.com

まとめ

いかがでしたでしょうか。

三位一体とは何かというと

・神とイエスと聖霊が本質的に同質の存在であり、現れ方が違うに過ぎないという考え方
・イエスや聖霊を信仰の対象にしても多神教や偶像崇拝にならない神学を打ち立てる為に必要だった

ということになります。三位一体論について少しでもご理解いただければ幸いです。有難う御座いました。