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キリスト教の教えの核心となったイエスの言葉をまとめて紹介する。

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火の審判
舌は火である。

1991年にソ連が解体したと言っても、5年ほど前のクリミア侵攻しかりロシアは未だに思想的には脅威と周辺国は感じている。ロシアやアメリカの大統領がどうあろうと、歴史上最も影響力を行使したのは、キリスト教出発の原点となった。イエスキリストだろう。その影響力は日本にもおよび西暦1年はイエスが生まれた年を基準としているし、民主主義の出発となったのはカトリックの中から生まれたプロテスタントであった。 一体享年33歳という短い生涯でなぜそれだけ多くの人の心に残り、今なお世界中のクリスチャンに愛されているのかと言えば、その言葉が人々の共感を得る、否、それ以上に人の良心に直接働きかけてくるような切れ味と実際にその生涯で示した姿が愛の本質を伝え続けているからではないだろうか。

今回は新約聖書の中でもイエスキリストの言葉の主要部分、特にキリスト教の教えの根幹をなしているであろう言葉を紹介し、簡単に解説しようと思う。 新約聖書の中でもイエスが出てくるのは最初の4つの福音書だけである。実際新約聖書の7割以上を記録したのは使徒パウロで、パウロはイエスの死後に弟子になった方であり、いわゆる12使徒には含まれない。それゆえに人によってはキリスト教をパウロ神学と言う人もいる。ちなみに僕は別にクリスチャンではない。

4つの福音書はいずれもイエスの生誕の経緯から十字架でなくなる前後までをそれぞれの言葉で記述していて、長さも違う。 ここで上げるのはもちろん全部ではない。あくまで僕が主要な内容だと思ったものだ。文体を変えます。 文の前の数字は新約聖書の何章何節を示している。

マタイによる福音書

第5章

5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

この言葉は解説するまでもないでしょう。次に続くところも含めて、非常に有名なイエスの御言でマタイによる福音書の5章から結構な量の御言をイエスは残しています。これを“山上の垂訓”と言って非常に重要視される部分です。

5:27『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:28しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 5:29もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 5:30もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 

ここも山上の垂訓の続き。姦淫するなと言うのはユダヤの十戒に代表される教えの核心です。しかし姦淫するなと言うだけでは、ただその外的な行動を縛るだけにすぎません。つまり心の中でどう思っていようと関係ないわけです。イエスはもう少し踏み込んでより深い内容を語っているのが分かると思います。心の中で邪な思いを異性に対して抱くだけでもすでに罪だと言っているのです。そして罪を犯したら死後、地獄に行くことになるので、地獄行きを避けるためにも女性をみだりに視界に入れないように目を抜き出して捨てなさいと言っているのです。

5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 5:42求める者には与え、借りようとする者を断るな。

目には目を、歯には歯をというのも有名なユダヤの教え。簡単にいえば、やられたらやり返せ!と教えています。個人的な意見ですが、それはあまりにも幼稚な教えだと思います。イエスはそのユダヤの教えもさらに進化させました。

5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

上と似ている内容。これがキリスト教の教えの超重要部分の愛敵の教えです。つまり自分に害をなすもの、迫害するものに対してやり返すのではなく、むしろ施してやりなさい、愛してやりなさい、と言っているのです。言うは易しですが、イエスキリストはそれを実践しました。最も分かりやすいものは十字架の刑にかけられ、ユダヤのパリサイ人や律法学者に唾を吐きかけられるような場面でイエスは神に祈っています。“神よどうか彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているか分からないでいるのです、と。

第6章

6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

良いことをしながら、それを見せびらかさないようにしなさいということ。

6:5また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 6:6あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 6:7また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 6:8だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

多くのユダヤ人が祈りをささげる際にもイエスは言いたいことがあったのでしょう。祈る姿を人に見せて、“私はこんなにも信仰者です”、“こんなにも神に従順です”と言うことを周りの人にアピールする、それ自体が目的となっている。しかしこういう心は現代人でも多くの人が持っているのではないでしょうか。それは動機がずれてるよ、意味がないよ、とイエスは言っています。

6:14もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 6:15もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

ユダヤの神にはあまり赦しと言う概念はありません。それこそ目には目を、が基本なので、イエスが伝えた神様はだいぶ違います。一貫して罪を赦す神です。でもあなた自身が人のことが赦せないのに神に赦してもらえると思うなよ、と言っているのです。全くその通りですね。

6:16また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 6:17あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 6:18それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

その報いを受けてしまっているというのは、断食をしながら、つらそうな顔つきをしてやはり周りの人にアピールすることです。または周りの人に心配してもらったり、優しくしてもらおうという下心を持っているよ、と言っているのです。だから本当に神を信じているなら、誰に見られていなくてもひとりでやりなさいということです。

6:24だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
6:25それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 6:26空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 6:27あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 6:31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 6:34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

異邦人と言うのは簡単に言えば俗人ということ。衣食住を心配しすぎるな、それ以上に神様の前に負債のないような心で生活しなさい、と言っているのです。


第7章

7:1人をさばくな。自分がさばかれないためである。 7:2あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 7:3なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 7:4自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 7:5偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

とても分かりやすい例えです。周りの人をむやみに非難するな、ということ。自分自身にも様々な欠点や至らないこともたくさんあるではないか、それらを棚上げにしてどうして人に悪く言うことができるのか、と言うことです。

7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 7:9あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 7:10魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 7:11このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 7:12だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

イエスは人間は神の子である、と言う概念を作り出しました。これはそれまでのユダヤ教とは大きな違いです。ユダヤ教の神は人間を作ったけれでも、人間は神の子供ではありません。神はまるで管理者のような立場でしょう。人間が罪を犯せば容赦なく神は人間を殺します。旧約聖書ではそういう場面が死ぬほどあります。一番有名なのはノアの洪水です。ほかにもソドムとゴモラという街を滅ぼしたり。子供が悪いことをしたら、親は子供を殺すでしょうか。そんなことはしません。赦します。そして教育します。イエスは徹底して赦しの神を説きました。何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これも非常に有名な言葉ですね。

第13章

13:3イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。 13:4まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 13:5ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 13:6日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。13:8ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 13:9耳のある者は聞くがよい」。 13:18そこで、種まきの譬を聞きなさい。 13:19だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。 13:20石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。 13:21その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。 13:22また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。 13:23また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

この例えはイエスの御言を聞く人のことを種まきに例えています。まかれる種が御言でまかれる地が人です。初めの道端にまかれたもの、石地にまかれたもの、いばらにまかれたものは徐々に俗人の言葉や文化に流されていったり、困難な状況で御言を忘れてしまう人で、良い地にまかれた人は決して御言を忘れずに実践する人のことです。このようにイエスは多くのことを例えで語りました。

第18章

18:1そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 18:2すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 18:3「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 18:4この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

自分を低くするものが一番偉いのである。簡単に言えば謙虚さを持ちなさいと言うことでしょう。聖書に出てくるユダヤ人のパリサイ人や律法学者と言う人たちは知識人のような人たちでイエスの目にはあまりにも傲慢に見えたのでしょう。

18:10あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 18:11人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕 18:12あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 18:13もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 18:14そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

羊とは人間のことです。罪の中にいる人間を迷える羊に例えています。羊飼いは神を指していて、たった一人でも迷える羊、罪人が神のもとに帰ってくるなら神はその一人にために喜ぶと言っているのです。キリスト教は民主主義の根幹です。簡単に言えば全体主義とは反対の一人一人を尊重する考え方はまさにこの神観から来ています。すなわち神がたった一人の人でも見捨てないという考え方です。

18:21そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 18:22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 18:23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 18:24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 18:25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 18:26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 18:27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 18:28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 18:29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 18:30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 18:31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 18:32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 18:34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 18:35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

とても面白い例え話です。ある人が王様に対して1タラントの負債、借金がありました。そこでその人は王様にどうぞお待ちくださいと言いました。王様はその人を哀れんで負債をなしにしてあげました。ところがその人が王様のところから出ると、自分の仲間で金を貸している人を捕まえて100デナリを返せ!と取り立てました。それを知った王様が怒って、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。と言ったという話です。先ほども出ましたが、自分が赦さないのに天の神に赦してもらえると思うな、と言う例えです。

第19章

19:23それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 19:24また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

これも非常に有名な御言ですね。この思想があるから富めるアメリカ人などで死ぬときに財産をすべて寄付する人もいます。

第20章

20:1天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 20:2彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 20:3それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 20:4そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 20:5そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 20:8さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 20:9そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 20:10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 20:11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 20:12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 20:13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 20:14自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 20:15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 20:16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

ブドウ園の主人が人を雇って働いてもらいます。その時に初めの方の人は朝から働いて、後の人は5時から働いたのに主人は両方に1デナリずつ支払います。すると朝から働いた人がなぜ短い時間しか働いた人にも自分たちと同じように賃金を払うのかと憤慨するというのです。しかし主人は私はあなたに対して不正はしていないと答えます。朝から働いた人からすれば、当たり前の言い分かも知れませんが、この例えから学ぶべきはこの主人の寛大さでしょう。イエスは間接的にはもちろん父なる神もすべての人に平等に接したいと思っておられるということを暗示しています。

21:28あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。 21:29すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。 21:30また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。 21:31このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。 21:32というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。

このときのイエスはパリサイ人や律法学者に対して話をしています。ヨハネと言うのは洗礼ヨハネのことでイエスよりも先駆けて洗礼を授け人々に悔い改めを説いている人物です。取税人や遊女と言うのは卑しい身分の人たちです。イエスはそのような人たちの方が、純粋に御言(ヨハネやイエスの)を信じるので一般的に身分もあって教養もあると思われている、または自負している人たちよりも先に天国に行くと言っているのです。

21:33もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 21:34収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。 21:35すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。 21:36また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。 21:37しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。 21:38すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。 21:39そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。 21:40このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。 21:41彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。 21:42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が
隅のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』。
21:43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。 21:44またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。 21:45祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、 21:46イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

主人は神、僕たちは旧約聖書に出てくる預言者たち、農夫はユダヤ人(の中でもパリサイ人や律法学者)、主人の子供はイエスをそれぞれ象徴しています。預言者達は神の啓示を受けて人々に悔い改めを説きました。しかし多くの預言者は殺されました。主人は自分の子供ならば農夫は敬ってくれるだろうと思いましたが、子供も殺されました。この子供はイエスのことです。イエスは自身がパリサイ人達が不信して自身が十字架につけられるようになることを予言しているのです。「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。ブドウ園とは天国のことです。天国はパリサイ人ではなく遊女や取税人のような身分の人に与えられるようになるだろうと言っているのです。

22:35そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 22:36「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 22:37イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 22:40これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 23:11そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。 23:12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 23:13偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔 23:14偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕 23:15偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

このようにイエスはパリサイ人達を痛烈に批判します。このような行動が彼らの怒りを買い、十字架に引き渡されるようになります。

25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

主人が僕にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラント預けます。5タラントと2タラント預かった僕はそれを運用して、その財産を2倍にします。しかし1タラントもらった僕は、それをただ隠していただけで何もしませんでした。そのことに対して主人は怒ります。実はこのタラントという単位は英語のタレント、すなわち才能と言う意味の言葉の語源になっています。これは一つの教訓です。自分の才能を用いてそれを磨いていけばもっと多くの物を得ることができる。しかし待たざるものは何もしなければ、そのわずかなものも枯れさせてしまうということです。

マルコによる福音書

第4章

15:11また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 15:12ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 15:13それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 15:14何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 15:15そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 15:16彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 15:17そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 15:18立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 15:19もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 15:20そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 15:21むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 15:22しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 15:23また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 15:24このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。 15:25ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、 15:26ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。 15:27僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。 15:28兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 15:29兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 15:30それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。 15:31すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 15:32しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

これは放蕩息子の話ですね。家を出て遊び倒していた弟が父のもとに帰ってきたとき父はしかりつけるのではなく、宴会を開きました。ずっと父のもとで付き従っていた兄はなぜ遊んでいただけの弟があのような扱いを受けるのかと憤慨しますが、父は『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 15:32しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』と言います。どんなに罪人であっても、その罪人が悔い改めて帰ってくれば、神からしてみればこの上なく喜ばしいことである、だからすでにどんな罪を犯した人であっても悔い改めることにより天国に行くことができると説きました。

ヨハネによる福音書

第8章

8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 8:9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 8:10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 8:11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕

これもとても面白い話です。イエスが「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。と言うと結局誰一人残りませんでした。自分自身にも罪の意識があったからです。そのような立場でどうして遊女に石を投げることが出来ようか、と。

第16章

21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。

これはイエスが十字架で一度死んで復活した後の話です。
イエスはなぜ3回もペテロに私を愛するかと確認したのでしょうか。最後の晩餐の時、イエスはペテロに預言します。あなたは鶏が泣く前に3回私を知らないと言うであろう、と。ペテロはたとえ死ぬことになってもあなたのことを知らないなどとは言いません、と言いますが、イエスがパリサイ人に捕えられていくときに恐怖で逃げ出します。その後、通りかかった人にあなたもイエスと一緒にいた!と言われますが、恐怖故にそれを否定するのです。3回も。そして鶏が鳴き、ペテロはイエスが言ったとおりになったので後悔して涙します。だからこそこの場面でイエスは3回もペテロに確認しました。私を愛するか、と。3回イエスを否定した失敗を清算させるためです。



以上です。
ここで紹介したのはイエスの御言の全てではありません。
ちなみに普段記事を書くときと文体が違いますが、内容に合わせてそうしました。僕は別にクリスチャンではないので、もしかしたら解釈が異なるところがあるかもしれません。個人的には、イエスの言葉自体は素晴らしいものだと思っています。時代を超えて人々に愛され、人としてどうあるべきかという問いに対して最もシンプルに正しいことを教えているのではないかと思います。

では。